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2010年6月

2010年6月30日 (水)

古代史の謎94:箱根、人面墨書土器の謎

025  静岡・三島市南部、小字箱根田で工事のため発掘調査したところ、運河と倉庫群、人面墨書土器が多数出土したと言う。
 遺跡の中央部には大きな溝が横切っており、溝の底部から人面墨書土器や墨書土器、木製祭祀用具、土師器や須恵器、緑釉陶器、動物遺体など2万点の遺物が出土した。

 特に話題となったのは人面墨書土器である。疫病神と思われる鬚面の人面が描かれ、それに象徴される疫病神を土器に封じ込め、川に流したものと思われる。又祭祀用具も多数出土しているが、これらは各地の国府や郡衙等の役所に近い河川や道路でも多く出土しており、外部からの災いを祓い清める公的儀式が行なわれていたことになる。箱根田遺跡も他所遺跡に見られると同様の律令祭祀跡でもあろうといわれている。

 箱根田は六棟の建物跡があり、条里の方向に沿って、整然と配置しており、公的な倉庫群と考えられるとしている。この一帯を管轄する役所跡であれば地方官衙跡かもしれない。駿河湾に注ぐ狩野川に近い平野部に掘られた運河とセットになっており、水運ネットワークの中心に位置づけられる遺跡である。
 

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2010年6月23日 (水)

可愛い人面花?

Photo  パッと見たとき、人の顔に見えませんか?
 この花は散歩道に面した民家の門脇に鉢植えされた花で、もう1ヶ月近く咲き続けている。花は2cmぐらいの小さな草花だが名前が分らない。
 最初見たとき、「ワッ人の顔だ!と思ったものだから、それ以降、この前を通るたびに、花が皆こちらを向いて、微笑んでいるような感じがして、何となく気になり眺めて通るのである。

 このような花の模様が一定の方向に向くのは、蘭の花などもそうであるが、植物なのにどうして一定の方向になるのかな。真上を向いて咲く菊などには方向はないだろうが、朝顔などはどうなのかな。横向きに咲く花は、形や模様に上下左右の違いがなくとも、上下が決まっているのかな。

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2010年6月22日 (火)

よく使う名数 その5(七)

七宝:<仏教>(シッポウとも読む。経典により異同がある)金、銀、瑠璃(ルリ)、玻璃(ハリ:水晶)、硨磲(シャコ:貝)、珊瑚、瑪瑙(めのう)
七草<春>せり、なずな(ペンペン草)、ごぎょう(母子草)、はこべら(はこべ)、ほとけのざ(タビラコ)、すずな(かぶ)、すずしろ(大根)。 <秋>はぎ、おばな(すすき)、くず、なでしこ、おみなえし、ふじばかま、あさがお(又はききょう)
七道:東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道(江戸時代まで、国が五畿(又は畿内)、七道に分れていた。又はそこを通る街道のこと)
七雄:織田信長、今川義元、武田信玄、毛利元就、上杉謙信、北條氏康、豊臣秀吉
七本槍:加藤清正、福島正則、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元
七福神:大黒天、恵比寿、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋
七堂伽藍:金堂、講堂、塔婆、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂。<真言宗>金堂、講堂、塔婆、鐘楼、経蔵、中門、大門。<禅宗>山門、仏殿、法堂、方丈、食堂、浴堂、東司。<唐様>仏殿、宝塔、東方丈、四方丈、鐘楼、鼓楼、山門。
七つ道具:具足、刀、太刀、弓、矢、母衣、兜

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2010年6月21日 (月)

古代史の謎93:怪僧道鏡の野望

 孝謙(のち称徳)天皇は天平宝字5年(761)病んだ。このとき治療に当ったのが、道鏡である。道鏡は霊山・葛城山で修行、東大寺に入り、唐からの最新知識をもった僧であった。孝謙は、道鏡を尊敬しており、それが恋心に変じたといわれる。

Photo  和気王の謀反を征討、幽閉中の大炊親王(淳仁天皇)の怪死(実は称徳による賜死)により、皇位継承者がなくなったのを受け、称徳は道鏡太政大臣禅師に任じた。更に天平神護2年(766)に瑞祥があったとして、道鏡を法王に任じた。事実上の皇位である。
 神護景雲3年(769)、「道鏡を皇位につかしめば、天下泰平ならん」との神託(実は道鏡による偽神託)が宇佐八幡宮からもたらされた。

Photo_3  これを聞いて称徳は託宣を下すべく、和気清麻呂を宇佐八幡宮に派した。ところが、八幡宮の神託は逆に、「臣下を皇位に就けるべきでない。皇嗣は必ず皇族を以ってせよ」との神託があった。これは、称徳が道鏡の天皇即位を阻むべく、偽の神託を奏上させたとの説と、清廉潔白な清麻呂の一人芝居だとする説があり、真偽は未だ謎である。この事件後、称徳天皇は宝亀元年(770)53歳で没した。称徳死後、道鏡は下野国薬師寺に左遷された。

 称徳ー道鏡政権は短期だったが、仏教振興(西大寺、西隆寺の造営)や写真の百万塔(21.5cmの三重塔)(陀羅尼(梵文呪文)を収蔵)の造立・配布、神道の興隆(神階、神封の設定)、銭貨「神功開宝」の発行なども行なった。

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2010年6月19日 (土)

新安保50年、今後の方向は?

Photo  今日は新日米安全保障条約承認から50年目の日である。「対等な日米関係」を目指した岸信介元首相は「安保闘争」の混乱の責任を取って辞任した。50年目、やはり「対等な日米」を謳い、米軍普天間飛行場の県外移設を目指した鳩山由紀夫前首相は実現できず辞任する結果となった。
 国民の大きな関心事になった日米新安保の超圧縮推移を纏めてみた。

歴代首相・現閣僚の安全保障にに対する考え・姿勢
 先ず日本国の自衛力保持に就き、「米軍依存派」「自主防衛派」に分かれるが、夫々の対米姿勢「自主路線派」「協調路線派」に別れる。
1.米軍依存派
 1)対米自主路線派:石橋湛山、社会党、旧社会党リベラルの会、現社民党
 2)対米協調路線派:吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、宮沢喜一、村山富市、
       橋本竜太郎、福田康夫、谷垣禎一岡田克也、仙谷由人、菅直人
2.自主防衛派
 1)対米自主路線派:鳩山一郎、
鳩山由紀夫、小沢一郎
 
2)対米協調路線派:岸信介、中曽根康弘、小泉純一郎、安倍晋三、麻生太郎
             
前原誠司  (註:赤色は現議員。青色は現閣僚)
 以上のように同一条約下であっても、時々の政権担当者の安保に対する姿勢や、日本の自衛力保持に関する考え方は異なるので、国民は常に関心を持つべきであろう。

Photo_3  新安保条約締結後の国内の主な動き
1960年1月:ワシントンで新日米安保条約調印
      6月:新安保条約発効、岸首相の退陣で安保闘争は収束
1962年11月:首脳会談で、沖縄72年核抜き本土並み返還に合意
1972年5月沖縄の施政権返還
1978年5月:金丸防衛庁長官、在日米軍駐留経費の一部負担(思いやり予算)表明
1983年1月:中曽根首相が首脳会談で「日米両国は運命共同体」と発言
1987年1月防衛費のGNP比1%枠撤廃
1994年7月:社会党の村山富市首相が「自衛隊合憲、日米安保堅持」を表明
1996年4月米普天間飛行場返還に日米合意、日米安保共同宣言に署名
2006年5月:普天間移設先をキャンプシュワブ沿岸部とする米軍再編のロードマップに日米が合意
2010年6月:鳩山前首相の日米共同声明を菅首相は踏襲を表明

 日本国内に米軍基地が存在するのは、日本の安全保障のためであるのは勿論だが、冷戦が解消し、米軍が日本とりわけ沖縄に基地を置く目的は大きく変わって、96年の日米安保共同宣言「アジア太平洋地域の安定維持の基礎」と位置づけられた。即ち国内の基地は「アジア太平洋地域」のための置かれているので、この地域での配置の見直しをすべき時期でないのか。又地位協定の不備沖縄県民の感情を逆撫でしていることも付言しておく。

      

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2010年6月18日 (金)

インド式計算法8(最終回) 割り算

 掛け算は基本形を4ケース紹介しましたが、これをアレンジした「高等技術」数多くあります。これまでご関心をを持たれた方は別途本を買ってご勉強下さい。
 さわりになる部分だけの紹介でしたが、最期に割り算を一つだけ紹介してこのシリーズは完了とします。

9でわる割り算は式を見ただけで答えが分る
123÷9=の場合
 割り算の商(答え)と余りは、次のようにして求められます。
1.一番高い位の数字(左端の数)を書きます。ここでは「1」です。
2.上から2桁の数足した数を上の数の右に書きます。ここでは1+2=3
3.総ての数を足した数を2.で出た数の右に書きます。1+2+3=6ですから、
     「136」となります。
 以上の数で最期の数6が余りで、は前の2桁の数13です。答え13余り。 

 同様にやって見ましょう。
1012÷9=は: : 1+0=: 1+0+1=: 1+0+1+2=
 
故に答えは 商が112、余り4
269÷9は:  : 2+6=: 2+6+9=17が桁上がりし、且つ
 
余りは1+7=とします。 故に 商が29、余りが8
102416÷9=は:
 
: 1+0=: 1+0+2=: 1+0+2+4=: 1+0+2+4+1=
 
1+0+2+4+1+6=141、1、3、7、8、14となりますから余りの14が桁上がりし、商の最後の桁が8+1=9となり、また余りが1+4=5になります。
 以上から答えは 
商が11379、 余りが5 です。

理論>3桁の数で説明。3桁の数をa、b、cとすると、その数は
      100a+10b+cとなります。
     100a+10b+c= 90a+9a+9b+a+b+c= 9×(10a+a+b)+a+b+c
          
=9×(10a+a+b)+a+b+c となり、
   
(10a+a+b)が商であり、a+b+cが余りであることがお判り頂けるでしょう。
                                              おわり。



 
 

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2010年6月17日 (木)

古代史の謎92:藤原恵美押勝の変

Photo  橘奈良麻呂クーデター未遂事件後、藤原仲麻呂専政体制総仕上げは大炊王(天武天皇の孫)を即位させ淳仁天皇としたことである。このとき、大炊王は未だ弱冠29歳であり、孝謙太上天皇と仲麻呂で完全な傀儡政権を作り上げた。
 仲麻呂自身は、姓に恵美の二字を賜り、藤原恵美朝臣とし、名に押勝が与えられ、通称「藤原恵美押勝」となり、太政大臣に任じたのである。

 恵美押勝は東北経営にも乗り出し版図拡大を行い、多賀城整備など支配強化を行なった。尚新羅に朝貢を求めたがこれは拒否されたものの、交易は盛んとなった。唯、対新羅外交は大宰府任せだったが、東アジヤ情勢の変化で、新羅征討計画は自然消滅した。
 尚、経済政策面では、久しぶりに新銭の「万年通宝」が発行された。又、常平倉を設置し、諸国の物資を貯蔵し、物価高騰時に放出するなどの施策もあった。

 我世の春を謳歌した押勝に、大きな転機が訪れた。叔母に当る皇太后藤原光明子の死である。彼が大きな後ろ盾を失ったと同時に、孝謙太上天皇が天皇の大権を行使するに必要な「鈴印」を淳仁天皇に移され、実権を孝謙に奪われたのである。
 鈴印を巡る争奪戦の最中、押勝は軍事力を把握し、孝謙失脚の動きを起こしたが、最終的に鈴印が孝謙に渡った段階で、押勝は謀反とされ、位階、財産総てを没収し、藤原姓を除く処分となった。
 一方押勝は越前を目指したが、琵琶湖西岸勝野で討たれてしまった。淳仁天皇も捕われ、淡路に幽閉された。孝謙が天皇に復帰し称徳天皇となる。

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2010年6月16日 (水)

インド式計算法7 掛け算(4)

 引き続き掛け算の計算法を載せます。
Ⅵ 10の桁が同じ数の2桁の掛け算
 一の桁を丸め、20や30のようなキリの良い数を基準にする。
64×67のような場合
1.64と67を縦に並べ、右側に基準(この場合70)との差を書く。
    64  -6     64  -6    64  -6
    67  -3 ⇒   67  -3 ⇒  67  -3
         □          18   42
                                                            1       8
                         428   8
2.右側に書いた数の下に枡(□)を書く。
3.右に書いた数の上下を掛けて、枡に書く。-6×(-3)=18。
  右は8となり、10は左に1繰り上がります
4.右と左の数字を斜めに足します。右下がりでも、左下がりでも同じ数になります。
   64+(-3)=61 又は 67+(-6)=61
 その値を基準の十の桁の数(ここでは7)を掛けます。61×7=427。
 よって繰り上がりの1を加えて、427+1=428。
 これを下に書きます。すると 4288になります。これが答えです。
理論>50を基準の場合、掛ける数を(50-a)と(50-b)とすると、
 (50-a)×(50-b)=10×5(50-a-b)+ab となります(演算途中略)。
 即ち(50-a-b)は右、左斜め足し算で、abは右上下掛け算です。また10×5は
 5倍(基準)した数を1ケタ繰り上げさせたことになります。

同様例 1)47×41=
                47 +7(基準40)
                41 +1 (47+1)×4=192
               192   7    答え:1927
     
2)78×75=
                78 +8(基準70)
                75 +5 (78+5)×7=581
               581   0
(8×5=40 ∴4を桁上がり)
                 4   0
               585   0    答え: 5850

               

 

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2010年6月15日 (火)

こりゃ何だ!

Photo  日曜の朝、植木鉢に水遣りをしてふと軒下を見上げると、写真の物がアンテナ引き込み線にぶら下がっているのが目に付いた。大きさは野球の球ぐらいで、下に伸びておりその先は径1cm位開口している。その下の空調の室外機の上には、胡麻粒ぐらいの糞らしきものが落ちている。
 それから察すると何か分らぬが小動物の巣かもしれないと思い、少時じっと見ていたが、それらしき物の出入りはない。家内にも見てもらったが分らないという。唯、もう、もぬけの殻みたいだという。
 そこで、意を決して取り除く事にして、脚立を立て念のため写真を撮ってから、若し生き物が居ても大丈夫なようにと、害中防除用の駆除剤を下の穴から噴霧してみた。しかし、何の反応もない。万一を考え更に2度噴霧を続けると、突然ガサコソと音がして、大きな蜂がブーンと飛び出してきた。瞬間脚立から飛び降りたので刺されはしなかったが、周辺を2、3回周回して、何処かへ飛び去った。
 それで、更に慎重に近づいて、鋏で切り落としたが、前の蜂が再び戻ってきて何度も飛び回るので、しばらくしてからその巣は、庭の土中に埋めた。

 しかし、こんなのは始めてみるものなので、早速インターネットで調べてみた。するとこれは「スズメバチ」女王蜂が一匹で先ず最初に作る(単独営巣期と言うらしい)巣であり、この中に沢山の「働き蜂」の卵を産みつけるそうだ。その卵が羽化して沢山の働き蜂となって営巣活動が始まり、最初の下に延びている部分は取り壊し、この周辺から巣を継ぎ足し、何層もある大きな丸い巣に創り上げてゆくそうである。よく民家の軒下や林の中で見かける、バレーボール大の縞模様の入ったのが、このスズメバチの巣である。巣は樹皮を齧りとったものを唾液と混ぜて創るので、あのように薄くて軽いが、割りに丈夫で、綺麗なものなっているそうだ。
 女王蜂には可哀相なことをしたが、あのようなでかい巣が我家の軒先に出来ても困るので処分したが、振ると何か入っている音がしてたのと、糞が沢山落ちていたことから察すると、既に孵化した幼虫が居たであろうと推定する。

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2010年6月14日 (月)

よく使う名数 その4(六)

 六の付く名数は日常的にはあまり使われていない。主なものも数少ない。
六方:東、西、南、北に天、地が入る。
六気:①陰、陽、風、雨、晦、明。晦は暗闇、転じて月末。②寒、暑、燥、湿、風、雨。
六芸:礼、楽、射、御、書、数。
六宗:<南都>華厳宗、律宗、三輪宗、法相宗、成実宗、倶(ク)舎宗。
六根:目、耳、鼻、舌、身、意。
六畜:牛、馬、羊、犬、鶏、豚。
六道:<仏教>地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅、人間、天上。
六腑:大腸、小腸、胆、胃、三焦(消化吸収、排泄を司る:概念で実体はない)、膀胱。
六義:風、雅、頌、賦、比、興。東京に六義園(柳沢吉保別邸の庭園)がある。
六歌仙:在原業平、僧正遍昭、喜撰法師、大伴黒主、文屋康秀、小野小町。
六曜日:先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口。
六所遠流:伊豆七島、薩摩五島、肥後天草、隠岐、壱岐、佐渡。(島流しの島)

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2010年6月13日 (日)

古代史の謎91:橘奈良麻呂クーデター未遂

Photo  聖武太上天皇没後、反乱が相次ぎ起こった。特に天平勝宝9年(757)7月に起こった橘奈良麻呂の変は、聖武没後、叔母に当る光明皇太后をバックに発言力を強める藤原奈良麻呂を標的としたクーデター未遂事件である。
 橘奈良麻呂は前左大臣橘諸兄の子息で、当時参議・議政官に列し、兵部卿も努めていた。決起の7月2日夜、藤原仲麻呂の田村第を400の精兵で囲み、仲麻呂殺害後、皇太子を廃し、右大臣藤原豊成を首班とする政権を樹立、孝謙天皇を廃し、新しい天皇を立てるというものだった

 しかし、奈良麻呂の動きを事前にキャッチし、且つ密告により知っていた仲麻呂は人事や体制の変更を通じ防御し、孝謙に奏上、捕らえられた。同調者は杖死(杖による拷問死)、流罪、左遷などに処せられ、クーデターは失敗に終った。
 クーデター決起の原因は東大寺大仏建立などにより、民の暮らしが圧迫され、人民の流亡と村の荒廃甚だしく、辛苦しているのを救うためだった。としているが、これを機に、人心掌握の施策を素早く実施した藤原仲麻呂の政権内部での支配力が大きくなったのである。

 写真は平城宮内の藤原仲麻呂の邸宅跡「田村第」推定地の発掘調査であり、広さは長屋王邸の2倍といわれる。孝謙天皇が一時内裏としたので、「田村宮」とも呼ばれる。

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2010年6月12日 (土)

インド式計算法6 掛け算(3)

 掛け算の面白い計算法をも少しやってみよう。

Ⅴ 100、1000前後の驚きの掛け算
)100を基準にしての掛け算
95×92の場合
    95 -5     95 -5     95 -5     95 -5
    92 -8 ⇒   92 -8 ⇒   92 -8 ⇒   92 -8
                 □□         40     87  40
 
1.95と92を縦に並べて、その右側に100との差を書きます。
 2.右側の下に2桁(100基準の場合)のマスを作る。□□
 3.右側の上下の数を掛け、マスに入れる。-5×ー8=40
 4.左上と右下又は右上と左下を足してできる数を、掛けあう数の下に書く。
   (95-8=87 又は 92-5=87 で同じ数が出来る)
 以上で出来た数 
8740 が答えです。
 同様に 
102×96の場合:(数字の下線はー(マイナス表示)2、3回を参照)
    102 +2     102 +2     102 +2
     96 -4 ⇒    96 -4 ⇒    96 -4
                     0(-8)  
98  0  ⇒ 9792 
                     ↑      ↑        ↑
                2×ー4=  102-4=98  9800-8
     よって答えは 
9792

)1000を基準の場合も同様
 996×993の場合:996 -4   996 -4   996 -4
              993 -7⇒   993 -7⇒  993 -7
                           028 ∴ 989028
 
1130×995の場合:1130 +130   1130 +130   1130 +130
                995   -5⇒    995   -5⇒   995   -5
                            1125  
650    1124   350
                                        ↑      ↑
                                    1125-1 1000-650
                                  ∴ 答えは 
1124350     桁数を変えたり、+ -を変えたりして試みて下さい。

     

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2010年6月11日 (金)

毒毛虫にご用心

Photo  深緑となり、庭木も伸びて葉を茂らせ、ボツボツ剪定もせねばならぬ時期である。例年この時期最も嫌なのが、庭木に毛虫が付く事だ。特に椿や山茶花には必ず付く「チャドクガ」と、山法師につく「イラガ」にはよく刺されたので、最近は早くから殺虫剤を撒布する。
 この2大強力「ドクガ」なる毛虫についてご参考までに、その特徴と防除法を記載します。

 まず、「チャドクガ」。名前の通り茶の木、椿、山茶花などに幼虫(毛虫)が付き、成虫が蛾になる。この幼虫は写真のように葉の裏側に付くのでチョッと見たぐらいでは分らないが、付く時はぎっしり並んで付いている。この毛虫の毛が大変な武器で、生涯を通じて持っている「毒針毛」であり、成虫の蛾では一匹に50万本から600万本付いていると言われ、少しでも触れるなら、2~3時間後には赤く腫れ上がり、痒くてたまらなくなる。毛そのものに毒があり、しかも折れやすいため、つい掻き毟ると知らぬ間にその断片が細分化し、伝播するため、1週間もすれば体中発疹が出来る。夜など痛痒感で眠れず、発熱やめまいを起こすこともある。
 先ず刺されて痒みが出たら、擦らずにガムテープを貼りつけ、付着している毛を除き、あと流水中で洗い流す事。そしてそのあとにステロイド・坑ヒスタミン剤を塗布する。痒いところを掻いた手で触ったところは必ず毛が移り痒くなると心得るべし。治るのに3~4週間ほど掛かるので大変だ。
 
防除法はスミチオン1000倍液を撒布。但し、殺虫してもその毛が同じく毒を持っているので、その部分は触らぬように切り取り焼き捨てるか、土中に埋める必要がある。

Photo_2  ついで強敵が「イラガ」。これは体長2cm位で、太さ5mm位だが、これも葉の裏側に付きやすく、且つ葉と同じ色でわかり難い。我家では山法師に付くが、欅、ブナ、柿など広範につく。この虫の場合は棘を通じて体内から毒を出すので、刺された瞬間は蜂に刺されたようなピリッとした痛みが走るので、「電気虫」などとも言われる。
 チャドクガのように発疹が伝播する事はないが、1週間は発疹が消えない。手当ての薬の種類、塗布法などはチャドクガに準じる。
 カメムシと並んで嫌われる虫の最右翼だそうだ。では、お大事に。

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2010年6月10日 (木)

よく使う名数 その3「五」

 五はいい数字と思われますが、よく使われる名数というとそれほどではありません。日常的に使われる名数を紹介しましょう。

五山:過日京都五山という展覧会がありました。常識として知って居るべきなのかも知れません。<京都>霊亀山天竜寺、万年山相国寺、洛東山健仁寺、慧日山東福寺、京城山万寿寺。<鎌倉>巨福山建長寺、瑞鹿山円覚寺、亀谷山寿福寺、金峰寺浄智寺、稲荷山浄妙寺。
五大老:徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景(後、上杉影勝)。
五行:木、火、土、金、水。
五色:青、黄、赤、白、黒。
五官:<器官>目、耳、鼻、舌、皮膚。
五宝:<仏教>金、銀、真珠、珊瑚、琥珀。
五門徒:西本願寺、東本願寺、仏光寺、専修寺、興正寺。
五苦:<仏教>生、老、病、死、獄。
五菜:にら、らっきょう、わさび、ねぎ、まめ。
五時:立春、立夏、大暑、立秋、立冬。
五悪:<仏教>殺生、偸(チュウ)盗、邪淫、妄語、飲酒。
五常:①仁、義、礼、智、信。②(五倫)父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。
五感:視、聴、嗅、味、触。
五穀:米、麦、粟、黍(ヒエ)、豆。
五臓:肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓。
五人囃子:地謡、笛、大鼓、小鼓、太鼓。
五奉行:前田玄以、長束正家、浅野長政、石田三成、増田長盛。
五街道:東海道、中仙道、日光街道、奥州街道、甲州街道。
五節句:人日=1月7日、上巳=3月3日、端午=5月5日、七夕=7月7日、重陽=9月9日。
五摂家:近衛、九条、二条、一条、鷹司。
五畿内:山城、大和、河内、和泉、摂津。

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2010年6月 9日 (水)

古代史の謎90:何ゆえの「大仏建立」だったか

Photo  天平勝宝4年(752)は、仏教伝来より200年目。その4月9日、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇以下皇族貴族官人列席の中、開眼師・菩提僊那(インド僧)により、東大寺・盧舎那大仏の開眼供養が盛大に挙行された。
 聖武天皇が大仏建立を決意したのは天平12年(740)難波宮行幸の折、河内・智識寺の盧舎那仏を拝してだという。同年大仏造立の詔を発し、同16年遷都を予定した紫香楽宮の甲賀寺で、大仏の芯の骨柱が立てられた。

 この時、紫香楽宮と恭仁京の造営工事が並行するが、大仏建立とも重なり、財政上の困難から恭仁京は中断した。それで、聖武天皇が滞在を続けた紫香楽が首都となり、遷都して新京「甲賀宮」となった。しかしその4ヵ月後、財政上の問題もあり、官人や寺社の反発が強く、天平17年(745)4年半ぶりに、都を平城京に還都せざるを得なかった。

Photo_2  平城還都と共に甲賀宮での大仏建立も残念せざるを得なかったが、何故聖武天皇が甲賀寺の大仏を諦めたかは謎なのである。逆に平城京では、逼迫した財政状況の中で、何故多くの民を苦しめる出費と労役を課してまでの大仏建立だったか、単なる国家鎮護のためだけなのかかも謎である。
 唯嫌がる聖武に平城還都を決意させたのは、唯一頭の上がらぬ元正太上天皇による説得であり、平城京における大仏建立を条件にしたものと思われる。

 

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2010年6月 7日 (月)

返咲きテッセン

Photo  又々、珍しくも何ともないが、再びテッセン。
 前回当ブログに紹介したのが4月23日。あれから1ヵ月半。前回のは完全に散ってしまい、その後に再び伸びた新芽に、今度はぎっしりと蕾がつき、それが咲き始めた。

 これを「返咲き」というが、「返り花」とか「戻り花」とかいったような気もする。天候不順で、寒暖を繰り返したので、花が狂い咲きしたのであろう。
 それにしても、今回はまあぎっしりと蕾がつき、小振りながら花が押し合って咲いているテッセンも珍しいので、紹介した。

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2010年6月 6日 (日)

インド式計算法5 掛け算(2)

 前回(4回掛け算(1))のⅡと似ていますが、今回は十の位が足して10になり、一の位が同じ数の場合の簡単掛け算法をやって見ましょう。

Ⅲ 十の位が足して10になり、一の位が同じ数どうしの掛け算
38×78の場合
1.(十の位の数)×(十の位の数)+一の位の数=を計算。3×7+8=29
2.一の位どうしの掛け算。8×8=64
3.上記二つの数を並べれば、それが答えです。即ち2964です。

 同様に 65×45=  6×4+5=29と5×5=25故に2925
      
22×82=  2×8+2=18、2×2=。 故に1804

<理論>:十の位の数をaとbとし、一の位をcとすれば掛け合わせる2つの数は
(10a+c)と(10b+c)で、a+b=10なので、
(10a+c)と(10b+c)=100ab+10ac+10bc+c×c=100ab×10c(a+b)+c×c
=100ab×10c×10+c×c=
100(ab+c)+c×cとなっている。

Ⅳ 9の不思議:9が続く数とそれ以下の数の掛け算
99×54の場合
1.9が並ぶ桁数だけ空欄を作り、その前に掛ける数(54)より1引いた数を置く。54-1=53.よって、 53□□
2.上の計算値を9が続く数から引く。即ち99-53=46。これは1.の5、3の9に対する夫々の補数4、6ですね。これを上の空欄に入れる。5346となります。これが答えです。

 同様に  999×387は、387-1=386。故に 386613
      
9999×624は、624-1=623。故に 6239376
   (2番目は9が4桁なので、下4桁は、0623の9に対する補数とする)

<理論>9が続く数に掛ける数をaとすれば、999×aとなる。ここで、999=1000-1とすると、(1000-1)×aとなる。
(1000-1)×a=1000a-a=1000a-1000+1000-a=1000(a-1)+999-(a-1)。
a-1小さい数から1を引いた数を表わし、999-(a-1)その9に対する補数だと分りますね。

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2010年6月 5日 (土)

古代史の謎89:聖武天皇の彷徨・遷都(恭仁・紫香楽・難波)

Photo  広嗣の乱が未だ収まってない天平12年(740)10月、聖武天皇は突然、鈴鹿の関の東、関東(セキノヒムカシ)に行幸するとの勅を、広嗣追討中の将軍に発し、鈴鹿王と仲麻呂の兄豊成を平城京留守に任じて、平城京を出立した。以降の行路及び三度の遷都(恭仁京・紫香楽京・難波京)は図のとおりである。

 何故乱も収まらない時期に、このような彷徨とも言える行幸や遷都を繰り返したのか。その原因、目的、理由など明確には分っていない古代史最大の謎とさえ言われる。
 従来は広嗣の反乱に乗じて、京でクーデターが起こるのを怖れ、平城京を出たとされていた。しかし、「聖武の行動は、首尾一貫した理念の下、計画的に進められている」というのは、学習院大の遠山講師。「出発点こそ違え、曽祖父にあたる天武が壬申の乱にたどったコースと重なっている。これは壬申の乱を追体験し、大海人の経験・危機感を共有する事で、貴族官人らとの連帯感・一体感を得ようとした」とするのは京都女子大の瀧浪教授

 更に聖武が「思い止まれず」曽祖父の跡を踏襲したのは、「大仏建立」への思いだったとする説がある。聖武一行が玉井頓宮を経て恭仁京に入り、ここを新京としたのは、「紫香楽にルシャナ仏を建立する際、木曽川からの物資輸送の中継基地として、至便な土地だから」であった。果たせるかな、紫香楽宮にて、天平15年10月、「大仏建立の勅」を下した。

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2010年6月 3日 (木)

今年も咲いた

Photo  まともな世話もしなで、庭の片隅に放置していた鉢植えのクジャクサボテンが、今年も咲いた。
 何しろここ数年植替えもせず、伸びすぎた部分だけを切り落とすだけ。肥料や水遣りなど一切せずとも、こんなに立派な花を付けるのだから、強いですね。

 驚きと感謝の意を込めて披露します。

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2010年6月 2日 (水)

よく使う名数 その2「四」

 今回は四の数詞がついてよく使われる言葉を拾ってみましょう。四はあまり縁起がよいとは申せませんが、四の名数も結構使われていますね。

四大師:お大師さんといえば弘法大師ですが、伝教大師=最澄、弘法大師=空海、慈覚大師=円仁、知証大師=円珍。円仁、円珍は最澄の弟子で真言宗を隆盛した僧。
四天王:<仏教>多聞天(北)、持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)。<和歌>頓阿、兼好、浄弁、慶雲。<家康配下>酒井忠次、井伊直政、本多忠勝、榊原康政。
四民:士、農、工、商
四夷:東夷、西戎(セイシュウ)、南蛮、北狄(ホクテキ)。中華思想で四囲の国々を見下した表現。
四苦:<仏教>生、老、病、死。
四姓:源氏、平氏、藤原氏、橘氏。(源氏、平氏は皇族の末裔)
四法:<漢詩>起、承、転、結。
四神:玄武(北)、青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)。
四品:小(6歳以上)、少(16歳以上)、壮(30歳以上)、老(50歳以上)。律令下の戸籍には年齢と併せ四品が記載されている。小児、少年等今も使われている。
四書:大学、中庸、論語、孟子。江戸時代エリートの必須学習科目。
四教:詩、書、礼(ライ)、楽。江戸時代教養人必須の嗜み。
四道将軍:北陸道=大彦命、東海道=武渟川別命(タケヌナカワワケ)、西海道=吉備津彦命、山陰道=丹波道主命(タニハミチヌシ)。我古里にこの丹波道主命の墓といわれる、両輪のごとき陪塚を持つ「車塚」と称する前方後円墳があり、出土品は京大考古学教室にある。
四親王家:<江戸>伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮。

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2010年6月 1日 (火)

古代史の謎88:律令制の崩壊か、完成か「墾田永年私財法」

Photo  律令制は土地を国家の所有(公地公民)とし、戸籍登録した総ての公民には「口分田」が班給され、収穫に課税する税制を確立した。死後は口分田を国に返納した。これを班田収受法という。(写真は戸籍台帳の一部)

 大宝律令は中国の法体系に若干の修正を加えただけで、施行後様々な不具合が出た。税収増加のための田畑の開墾推進のために、「墾田は三世代の間、又荒廃田の再懇は本人一生の間、公収(返納)しない」という三世一身法が公布された。更に、貴族、豪族等の土地私有の強い欲求を拒否できず、ついに天平15年(743)土地私有を認めたのが、「班田永年私財法」である。

 従来、この三世一身法、班田永年私財法により、公地公民制が崩壊したものと解されてきた。しかし、最近は、吉田孝氏の研究により、これほど長い間誤解されてきた法令も珍しいと言われる様になった。これまで何故、律令制崩壊の元凶の如く見られたのか不思議であり、大きな謎である。
 逆に、律令制を完成に導いた法令であるとする現在の説を以下略記する。それは、中国では十分な口分田がある上、収公されない「永業田」の所有が認められていたのに対し、日本の場合は口分田に必要な面積は、開墾田をいれても不足していたことである。折角開墾しても収公され開墾意欲を削いでしまった。

 そこで、田地の所有限度を定める均田制が模索され、その最初の法令が三世一身法であり、墾田永年私財法はそれを改正するものであった。
 
そして、班田図が全国的な規模で作成されたのは、天平14年(742)が最初である。より正確な土地掌握の過程において、開墾地の所有をめぐる画期的な法令が出されて田地の所有限度が具体的な数字で明確に規定され、大宝律令施行から42年にしてようやく中国の均田制に相当する制度全体の取り入れに成功したといえる。即ちこれで中国の律令制を継受したのであり、律令制の崩壊と見るのは誤りと分ったのである
 
開墾地を含めた田地を掌握し、律令国家による土地支配はより強固になったのである

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