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2010年5月

2010年5月30日 (日)

博多座大歌舞伎、船乗込み

1  今日、博多座歌舞伎公演に先駆け船乗込みが行なわれた。
 船乗込みは歌舞伎興行の際、俳優が”ご当地到着”を船に乗ってお披露目する歌舞伎独特の伝統行事だ。

005  歌舞伎公演には必ず「船乗り込み」が行なわれているのだが、わざわざ見に行ったのは初めてだ。結構大勢の人が博多川両岸に来て見物した。今回もいつもと同じく、約800m上流の「キャナルシティ横の清流公園から乗船、途中の川端商店街横で口上が述べられ、博多リバレインにて下船、横の歌舞伎座に入った。

3  写真上が先駆けの船、中の写真が坂田藤十郎、中村吉衛門等が乗った船、その後市川染五郎、中村梅玉、尾上松緑らが乗った船が続き、下の写真は博多芸子衆を乗せた船。

 

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2010年5月29日 (土)

インド式計算法4 掛け算(1)

 今回から掛け算に入ります。簡単に使えそうなものを紹介します。

Ⅰ 11から19までの数どうしの超簡単計算法
13×18の場合:
1.どちらかの数(13とします)ともう一方の一の位(8です)を足します。13+8=21
2.元の数の一の位どうしの数を掛けます。3×8=24
3.1.の一の位の数と2.の十の位の数が重なる位置にしてたす。
      21      同様に 14×19は、14+9=23、4×9=36
    +  24           故に230+36=266
       234           18×15は、2340で、27です。
 理論家のあなたへ:掛ける数を(10+a)と(10+b)で表わすと、
(10+a)(10+b)=10×10+10b+10a+ab=10×10(10+a+b)+abとなっているからです。

Ⅱ 十の位が同じ数で、一の位が足して10になる場合の計算法
 63×67の場合
1.(十の位の数)×(十の位に1足した数)。6×7=42となります。
2.次に1の位同士の掛け算をして上記で出た数の右側に並べる。3×7=21
  故に 4221 が答えです。
 同様に  42×48は 20と16となるから、 2016
       94×96は 90と24となるから、 9024
  理論家のあなたへ
:この場合掛ける2数を(10×a+b)×(10×a+c)で表わすと、b+c=10である事を考えれば
(10a+b)×(10a+c)=100a×a+10ac+10ab+bc
=
100a(a+1)+bc  となっているからです。

 

 

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2010年5月28日 (金)

古代史の謎87:広嗣の乱

 天平9年(737)遣新羅使が持ち帰ったと言われる天然痘が流行。藤原房前の急逝に続き、藤原4兄弟が相次いで死亡。天平10年738橘諸兄(葛城王改名)が右大臣となり、4兄弟の後の政権を担い、聖武天皇・光明皇后を輔弼する。

 当時、天平6年(735)に唐より帰国した吉備真備、僧玄昉(ゲンボウ)は聖武天皇、光明皇后の信篤く政権中枢にいた一方、藤原宇合の嫡男広嗣は遠征が多く、天平10年(738)大宰府に左遷される
Photo_2  当然、広嗣は真備、玄昉を羨み、天平12年(740)天地の災害等も二人の悪政に根源ありとし、二人の排除を求め、乱を起こした。しかし、朝廷の大軍に鎮められ、捕われて斬殺されると、怨霊となって朝廷に歯向かったとされる。

 「続日本紀」によると、怨霊は玄昉を筑紫観世音寺に左遷させ、落慶供養の当日落雷により首を取り、後に奈良興福寺に落ちたと「扶桑略記」は伝えている。奈良・高畑町の「頭塔の森」はその首塚と伝わる。
 又、霊を調伏するため、朝廷は真備を派遣し、鏡明神として祀ると霊は鎮まったという。唐津市の鏡神社の二ノ宮である。その神宮寺であった知識無怨寺も広嗣を祀る。現在の大村神社で、境内に広嗣の首塚と称する遺跡がある。

 怨霊を何故このように手厚く祀ったか、不思議であり、藤原一族内の争いであり、一方的に広嗣に非があったわけではないのか、或いは日本特有の「判官贔屓」又は「怨霊鎮護(原始宗教)」のなせる業か謎である

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2010年5月26日 (水)

よく使う名数 その1

 名数とは「数字を冠して、同類の事物をその数だけいう語」と広辞苑にある。簡単に言えば、三美人、四天王のような表現の事です。よく使われるが中味がわからないとか、知っておきたいものを順次紹介して行きましょう。

「三」のつく名数
三山:<大和三山>畝傍山、天香具山、耳梨山。<熊野三山>本宮、新宮、那智。<出羽三山>羽黒山、月山(ガッサン)、湯殿山。
三世:<仏教>過去、現在、未来。又は前世、現世、来世。
三社:伊勢神宮、岩清水八幡宮、賀茂神社。
三宝:仏法、法宝、僧宝。
三家:<徳川>尾張、紀伊、水戸。<毛利>毛利、吉川、小早川。<礼式>伊勢、今川、小笠原。
三族:父母、兄弟、子孫。又は、父母、兄弟、妻子。
三都:江戸、大阪、京都。
三郷:田安、一橋、清水。
三景:松島(陸前・宮城県)、厳島(安芸・広島県)、天橋立(丹後・京都府)。
三尊:阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至(セイシ)菩薩。又は、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩。若しくは、薬師如来、日光菩薩、月光(ガッコウ)菩薩。
三筆:嵯峨天皇、空海、橘逸勢(ハヤナリ)
三聖:<書道>空海、菅原道真、小野道風。
三傑:西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允。
三関:鈴鹿の関(伊勢・三重県)、不破の関(美濃・岐阜県)、愛発(アラチ)の関(越前・福井県)のちに逢坂の関(近江・滋賀県)。
三権:立法権、司法権、行政権。
三大河:利根川=坂東太郎、筑後川=筑紫次郎、吉野川=四国三郎。
三大門:羅城門(ラジョウモン)、朱雀門(スザクモン)、応天門。
三奉行:寺社奉行、勘定奉行、町奉行。
三種の神器:八咫鏡(ヤタノカガミ)、草薙剣(クサナギノツルギ)、八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)。

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2010年5月25日 (火)

インド式計算法3 加減混合算

 今回は足し算と引き算が混じった場合の計算法を紹介します。

3.加減混合算
1)先ず減算部分の計算
65-37の場合
1.引く数字には37のように下線を入れることにします。そして足し算で表わします
              65+37
2.一の位の数を前からたします。5+ (5-7=-2と同じ)。
3.十の位も同じように進める。6+=3。
4.以上から答えは3となりますね。は-2ですから、十の位から一繰り下げて計算します。∴10-2=8。 この時、十の位は1小さくなっていますから、3-1=2。
 尚、の表示は10を基数とした2の補数を示している。
5.答えは28となります。
 このように4の表示は→33の事。同じく9→82、5→48となります。

2)加減混合の計算
 54-67+32の場合
1.一の位で前から足して、4+=3。3+2=
2.十の位も同じく、5+=1。1+3=2。
3.2となるので、直して19。答えは 19

 では終りに大きな数字で加減算をやって見ましょう。
5342-4785+6028-1448+2634の場合: 引き算を足し算に変えて、
5432+4785+6028+1448+2623
上から 千の位:5++6++2=8。 百の位:3++0++6=
十の位:4++2++3=。 一の位:2++8++4=1。
故に合計値は 23となります。これを直します。十の位のは補数7になり、百の位から1引くと、-1=となります。これを直せば3の補数7となり、千の位から1引くと8-1=7となり、答えは7771です。

 始めは不慣れで時間も掛かりますが、慣れると早くなるでしょう。            

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2010年5月24日 (月)

古代史の謎86:藤原氏の野望、光明子立后

2  長屋王の変から半年、甲羅に「天王貴平知百年」と読める文様のある亀が献上された。これを瑞祥として年号が「天平」と改元されたのを機に、光明子は皇后に立てられた。藤原光明子は首皇太子(聖武天皇)と結婚して9年目にしてようやく念願の皇子が生まれ、1ヵ月で異例の皇太子に立てられたが、満1歳を目前に夭折した。
 このままでは外戚の地位と繁栄が崩壊すると危惧した藤原一門は、光明子を皇后にして起死回生を図るため、最大の障害となる長屋王を抹殺したのである。このような無理を通して光明子を皇后にしたのは、聖武天皇のもう一人の夫人が皇位継承者(安積親王)を生んでいたからで、皇后であれば女帝として皇位継承できるからである
 繊細で律儀な聖武天皇と豪放磊落な光明子皇后は似合いの夫婦だったか、この後25年に亘って活躍する。

 又、藤原氏は、不比等の子、4兄弟の長男武智麻呂は藤原「南家」として、藤原氏の中心的存在で、文教行政に才能を発揮、子の仲麻呂が実権を握る。次男房前「北家」の祖で、政治的力量があった。三男の宇合「式家」の祖となり遣唐副使として渡唐。難波宮造営も行なった。四男麻呂「京家」を起こし政治や歌に才能を発揮した。これら4兄弟が権勢を揮い、藤原氏繁栄の基礎を築いたのである。

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2010年5月23日 (日)

インド式計算法2 引き算

Photo  今回は引き算に入ります。
足し算では補数を使う事と繰り上がりをやりました。覚えていますか。
念のため復習してから始めると良いでしょう。

 前回の宿題の回答は右の通りです。

2.引き算
 今回も補数を使いキリの良い数にして、繰り下げのある引き算から始めます。
63-26の場合
1.引く数26に4を足して、キリの良い数(一の位が0の数)にします。この足した数4(補数)を覚えておきます。 26+4=30
2.引かれる数63から30を引きます。 63-30=33
3.1.で覚えた歩数を2.の数に足します。 33+4=37、答は37
<まとめ>
1.引く数がキリの良い数になる数(補数)を足します。
2.キリの良い数を引きます。
3.そこに1.で足した補数を引きます。

 次にお買物でのお釣の計算法などに使える方法をやってみましょう。
1000-745の場合
1.引く数の百の位7に足して9になる数は? 答2です。これが百の位の数です。
2.十の位の数4に足して9になる数は? 答5です。。これが十の位の数です。
3.一の位だけは足して10になる数を求めます。一の位は5だから答は5ですね。
 以上から答えは255です。即ち、一の位は足して10になる数、他は足して9になる数を出せばいい訳ですから簡単ですね。

10000-4926なら  4 9 2 6
               ↓ ↓ ↓ ↓
               5 0 7 4    と直ぐ5074の答えが出ます。

   

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2010年5月22日 (土)

「あかつき」「イカロス」飛び立つ

Photo  天候不良のため、打ち上げ延期になっていたわが国初の惑星(金星)探査機「あかつき」と宇宙ヨット「イカロス」を搭載したロケットH2A17号機が、5月21日午前6時58分に種子島宇宙センターから打ち上げられ、約27分後無事ロケットを分離し、打ち上げに成功した
 分離後、約4億キロを半年かけて、12月7日ごろ、金星の周回軌道に到達。約2年間、金星の大気などの観測を行なう。
(写真は打ち上げ時のH2A17号機、毎日新聞夕刊より)

 「あかつき」の金星探査の目的や「イカロス」の光圧推進実証機の目的やその技術などは、既に当ブログ「5月17日 金星探査と「イカロス」に記載しているし、新聞各紙に詳細記事も掲載されているので、今回は略す。

 宇宙機構は「あかつき」からの電波を受信し、太陽電池パネルが展開され、太陽の位置から、機体を制御するシステムも順調に作動していることを確認した。宇宙ヨット技術の実証機「イカロス」からの電波も正常に受信している由。残りの4個の小型衛星3個との通信に成功しているとのこと。

 今回の金星探査は成功すれば惑星探査では世界トップクラスの仲間入りが出来る。又イカロスの帆の展開や、燃料なしの光圧航行に成功すれば世界初の壮挙となるとJAXAは言っている。
(写真は打ち上げ時のH2Aロケット17号、毎日新聞夕刊より)

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2010年5月21日 (金)

インド式計算法 その1足し算

 先日「インド式計算法」なる本をみたので、このブログで順次紹介します。インド人は世界で一番頭がいい民族だと聞いたことがある。なにしろ、数学や哲学の発祥地みたいな国なんだから。
 その数学のご本家のようなインドでの算術のやり方は、我々が小学校で習うやり方とは違う発想でのやり方で、慣れると案外、日常的に計算機を使わずに過ごせるかも・・・・。と思い、数回に分けてご披露します。

1、足し算
  
まず基本の足し算からやってみよう。
 1)補数を使う→キリの良い数字にして足す方法
 
37+48の場合
 はじめに足す数字48に2を足して50というキリの良い数字にします。即ち
末尾が0になるような数字を足すわけです。この足す数字のことを補数と言います。すると37+50=87となり、簡単に答えがでます。そこで、先ほど加えた補数2を引きます。即ち87-2=85となります。簡単な足し算の場合便利ですね。

<まとめ>
1.足す数に、適当な数を足してキリの良い数を作ります(この適当な数字が補数です)。
2.キリの良い数を、足される数に足します。
3.そこから1で足した補数を引きます。

 2)繰り上がりが苦にならない方法
 
47+59+86の場合
1.足す数字を縦に並べます。(第一図)
2.一の位の数字を下から順に足していきます(第二図)。6+9=15、
たしていった数が10を超えたところで、その数字の上に「・」を打ちます。ここでは9の上に・を打ちます。「・」一つが1の繰り上がりです
 1の位の5を再びその上の数に足し上げていきます。5+7=12、また10を超えたので、7の上にも「・」を打ちます。そして
12の一の位の2は下の計欄に書きます。(第二図)
3.次に十の位に進みます。(第三図)一の位に「・」が二つありますので、繰り上がりの2を十の位の一番下の数8に足します。2+8=10、10を超えたので、8の上に「・」を打ちます。10の1ケタの数0を再び上の数5に足し上げていきます。0+5=5、5+4=9となりますので、
9を下の計欄に書きます
4.百の位は十の位に「・」が一つあるので、1となります(第四図)
以上で
答は192となります。
Photo_8

この方法で、少し数の多い計算をやってみましょう。
 4773+3436+8707+3548= 
Photo_9   ・一のケタの計が24で、2上がり、4
 ・十のケタの計が16で、1上がり、6
 ・百のケタの計が24
で、2上がり、4
 ・千のケタの計が20で、2上がり、0
 ・万のケタの計が2となります。  2
         
結果、右図のように
なりました。
<宿題>では次の問題をやってみてください。
      6392+4258+3109+6475=  答は次号

 

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2010年5月19日 (水)

古代史の謎85:藤原氏の陰謀か”長屋王の変”

Photo_3    天平元年(729)2月10日平城京は緊迫した。聖武天皇の命により、藤原宇合(ウマカイ)等が軍隊を率いて、広大な左大臣長屋王邸を取囲んだ。
 長屋王謀反の密告を受け、即日軍隊が派遣され、翌11日使者による糾問が行なわれ、次の日には王は妻の吉備内親王、子の4王と共に自害させられ、邸内に残るもの総てが逮捕された。これが長屋王の変である。
 元明天皇に後事を託される程の人望があり、教養人であった長屋王が何故自害に追い込まれたか。長屋王は冤罪だったという噂は平城京でもささやかれていたが、事件から9年後に事件が冤罪であった事が漏れ、「続日本記」に記されたので、謀略事件だったことが明るみに出た。

 何故この事件が起きたか。聖武天皇と不比等の娘、光明子との間に念願の男子、基王が誕生し、生後僅か1ヶ月で、皇太子とした。この前例のない立太子式に長屋王は参列しなかった。且、1年後に基皇太子は急死。あと一人の親王の母は身分が低かった。対して、長屋王及び妻の親王も共に天武天皇及び天智天皇の孫に当る血筋である。今後聖武天皇と光明子の間に男子誕生がなければ、皇位が長屋王の子に移る。そこで長屋王一族の暗殺を藤原一族は計画した・・・・
 ただ、長屋王側に、聖武天皇や藤原氏に不信感を抱かせるような動きが皆無ではなかったとする節もあり、真実は謎である。

 変後、光明子は皇族出身以外で初の皇后となり、基王の姉・阿倍内親王が孝謙天皇となり、平安時代の藤原一族氏の栄華に結びつく。

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2010年5月17日 (月)

金星探査と「イカロス」

Photo  近頃、微小世界の話を続けたので、今回は大きな世界「宇宙」の話題を拾ってみた。
 明日早朝、宇宙航空研究開発機構(JAXA)種子島宇宙センターから、金星探査機「あかつき」が打ち上げられる。金星に到達すれば、日本初の惑星探査機となる。

 金星は地球と同時期(約46億年前)に誕生した故、「兄弟惑星」と言われる。直径が地球の約95%、質量が約80%、重力が約90%とよく似ているが、大気の主成分は96%が二酸化炭素、地表の気圧90気圧、気温460度と過酷。
 大気は常に東から西へ時速400キロで流れ、自転は赤道付近で時速6キロと非常に遅い。なのに何故大気が動くのか、この大気循環のメカニズムを解明するのが「あかつき」の最大使命とか。

 あかつきは6種類の観測装置を搭載し、これで大気の状況を測定する。
 このあかつきと一緒に打ち上げられるのが写真の小型実証機IKAROS(イカロス)」(ギリシャ神話の中の神様の名前)である。これは太陽光を大きな帆に受け、光の圧力で宇宙空間を進む世界初の「宇宙ヨット」なのである。
 帆は14メートル四方だが、1円玉の5分の1の重さに過ぎず、重力や抵抗が無いから、光の圧力で秒速100mまで加速可能。帆は髪の毛の10分の1という薄膜で、電気を通じると光の圧力を受けず帆を下ろした状態になる。この操作で進行方向は自在に決められる。薄膜表面に太陽電池がある。自在な航行の実証機なのだ。
 打ち上げ時、円筒に納めてあるが、ロケットから分離後、写真のように順次帆が開き、最下図の状態で、帆を広げ宇宙空間を飛び、この状況をあかつきのカメラが捉え、地球に届けてくれる。イカロスは金星と地球の間を永遠に飛び続けるという。

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2010年5月14日 (金)

古代史の謎84:藤原氏の勃興

Photo  715年、元明女帝の没後、娘の日高皇女に譲位し、元正天皇(36歳)となる。本来皇太子である首(オビト)皇子が即位すべきが、未だ幼い(既に15歳になってはいたが)事、及び日高皇女が落着きがあり、美人であることが理由だという。
 真の理由は首皇子皇族でない藤原宮子(藤原不比等の娘)を母としたからといわれている。

 ところが、元正女帝即位の頃には、左大臣石上麻呂、右大臣藤原不比等のほか、中納言三人、公卿は半分という少員数体制であった。そして717年(養老元年)石上麻呂が老齢でなくなったとき、筆頭に不比等が座り、本来公卿の席である石上の跡に不比等の次男房前(フササキ)で埋めた。が、慣例を破る藤原一族のこの特権的振る舞いに異議を唱える者はいなかったという。

 藤原一族の特権的振る舞いは、単なる権力抗争の結果ではなく、大化改新以降、律令国家の建設に邁進した功績によるもので、批判者も出なかった。農産を盛んにし、調庸の税収を増やし、逃亡や盗賊を取り締まり、戸籍計帳の整備、裁判の公正など地方政治にも気を配った。
 善政をしき、農事指導、生活指導、改善事項などの事績の結果であり、その特権的振る舞いが許容される素地があったと言える。

 不比等の死後、武智麻呂、房前、宇合、麻呂の4人の息子は強烈な個性を発揮し揃って活躍した。兄弟は南家、北家、式家、京家を夫々興し、後の藤原巨大勢力へと成長してゆく

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2010年5月12日 (水)

藻類ボルボックスの雌遺伝子発見

 先に、「ユーグレナ」のことを載せたが、今回も同じく微小生物だが、単細胞ではなく、500個以上の細胞からなる群体藻類のこと。

Photo  緑藻綱、オオヒゲマワリ目の「ボルボックス」(体長0.5ミリ)という緑藻類の話。東大大学院・野崎久雄准教授等のチームが雌だけが持つ遺伝子を発見した。生物の生殖は雌雄未分化で、生殖細胞がくっつく「同型配偶」から、卵子が精子を受精する「卵生殖」へ進化した。
 従来、これら藻類は雌を原形とし、雄が性にかかわる遺伝子を獲得して分かれたと考えられていたが、今回の発見で雌も雌らしさを獲得していたことが判明したのである。

Photo_2  チームは卵生殖するボルボックスの雌雄の性染色体のゲノム(全遺伝子情報)を解読。雌だけの遺伝子を「ヒボタン(緋牡丹)」と名付けた。勿論、緑藻でも単細胞の同型配偶で増えるクラミドモナスには「ヒボタン」がないことも確認。緑藻プレオドリナの遺伝子からは、雄だけが持つ遺伝子を見つけ、「オトコギ(侠気)」と名付けている。任侠映画からの命名も面白い。
 生物が卵生殖に進化する過程で、雌独特の形質を持つのに不可欠な遺伝子「ヒボタン」が現われたと推測している。雌雄分化の過程解明の手がかりが摑めたといえる。
(写真上がボルボックスの顕微鏡写真、下がその解説図。国立科学博物館のホームページより)

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2010年5月10日 (月)

古代史の謎83:律令制の軌道修正、平城遷都

 続日本紀によれば、和銅元年(703)元明天皇は詔を発し、「平城の地は四禽図に叶い、春日・奈良・生駒三山が鎮護し、亀甲・筮竹にも従う。よろしく都すべし」と、都城を中国古代の陰陽思想の地形に叶う奈良盆地に求めたのである。

Photo  平城遷都は、理想的な律令国家完成に必要な軌道修正のためであった。南北九条、東西各四坊の大路を碁盤目にした条坊制は、中国都城を模したものだが、左京の東、南北三坊の「外京」、右京の北に「北辺坊」が張出し、これを除いて京域は南北48km、東西43kmに及ぶ
 内裏、大極殿・朝堂院が置かれた「平城宮」も長安同様、北辺中央に位置する。「朱雀門」から幅約90mの「朱雀大路」が南へ伸び、南端に都の入口「羅城門」が桁行約33m、梁間約23mの威容を誇っていた。

Photo_2  多くの建物が藤原京からの移築とはいえ、着工から僅か2年で遷都したのであるから、完成には程遠かった。大極殿の完成は5年後の霊亀元年(715)である。平城宮だけで30万㎥の材木が使われ、瓦は500万枚に達したというが、藤原京からの建物・資材のリサイクルが旨く行なわれている。
 平城京の東院は藤原原不比等の孫に当る首皇子(後の聖武天皇)のための物であり、三条大路藤原氏の氏寺・興福寺の南大門を通り、氏神・春日大社へと続く。特殊な「外京」の存在は、藤原氏の都であり、その威勢を誇示しており、平城京は74年に亘って古代日本の中心であり続けた

 

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2010年5月 8日 (土)

これナーンダ?

 山裾にある公園の日溜りに咲いていたこの花なんでしょう?

Photo  結構一面に生えているので、やや遠方から見ると珍しい花が一杯咲いているような感じがした。
 早速カメラに収めようと近づいてよく見ると、なんとタンポポの綿毛なのだ。こんなに沢山の花の綿毛が、茎についたままの状態になっているのは見たことが無い。
 ここが風を遮る地形のところであり、日当たりがいい場所なものだから、普通なら風に飛ばされてしまう筈が、風にも飛ばず立ち並んでいるのでしょう。

 珍しいので、掲載した。

(尚、小生のホームページhttp://hihabe.com/「俳句を楽しもう」「箴言・禅語を心の糧に」の頁は「立夏」を機に、「夏季号」に更新しています。どうぞ、ご訪問ください。)

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2010年5月 6日 (木)

古代史の謎82:何故平城遷都だったのか?

Photo  古代最大の首都、藤原京は何故遷都後僅か16年で更に平城京遷都となったのか。大宝元年(702)、大和朝廷は粟田間人を執節使(特命全権大使)として、32年ぶりに遣唐使を派遣した。これは中国を模した律令国家として完成したことを中国に宣言、認知させるためのもので、①都城「藤原京」の完成、②大宝律令の完成、③銭貨富本銭の使用、④「日本」という国号の宣言を知らしめるためであった。(この時中国は唐から、則天武后の周に変わっていた)

 だが、4年後帰国した粟田間人達から知らされたのは、むしろ日本が遅れていることであった。
 先ず会心の作であるはずの「藤原京」は長安とは構造が異なり、非現実的な都城を作り上げてしまったことを痛感させられた。
 二つ目の律令は飛鳥浄御原令をベースとしており、律も同じく古い内容で都城に必要な宮衛令が存在してない。中国の法令律令格式が一体となって編纂される(格は律令の補足法、式は施行細則)が、大宝律令にはこれが無く、必要に応じて規則の補足や改変を行なっている。即ち、未完成の法律であることを深く知った。
 三つ目の銭貨の鋳造は、中国では前漢より使われた古いもので、既に新しい銭貨が鋳されているに関わらず敢えて古いものを発行したのは都城と同じく、机上の研究の産物といわれる。

 これら遣唐使のもたらした新しい中国の実態を知った事が、藤原京を平城京に変え、大宝律令から養老律令へ、富本銭から和銅開珎へという流れをつくり、律令国家建設の大きな軌道修正を行い、日本型律令制へとつながって行くのである。

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2010年5月 4日 (火)

博多どんたくを見に行った

 今年の連休は珍しく晴天続きで、気温も27.3℃まで上昇。観光地は何処も渋滞。そこで陽気に誘われ、もう数年も行ってないドンタク見物となった。
 正式には『博多どんたく港まつり』。2日の前夜祭から4日まで、街のあちこちの広場に舞台が作られ、歌や音楽、演芸等で賑わう。中でも街中パレードが圧巻で、各種団体が趣向を凝らし、一見の価値がある。
 今回は久し振りなので、道路脇に座り込んでパレードを楽しんだ。地方や海外からの参加も多くなっている。今年の人出予想は220万人とか。写真はその一部。

2  花電車。昔は路面電車が2日間走ったものだが、市電が無くなり、今は花自動車がパレードと一緒に進む。電球も省エネのため「LED」使用とか。

Photo_3    博多舞踊会。昔からの舞踊隊。因みに本当の「ドンタク」は「博多松囃子」にあわせ、両手に「しゃもじ」をもって打ち鳴らしながら踊って歩くのであるが、今はシャモジを持ったグループが少なくなった。

Photo_4  鼓笛隊。自衛隊、警察署、消防署、市役所、或いは民間のグループなど数隊の鼓笛隊が通った。鼓笛隊ではないが、和太鼓のグループも迫力があった。

Photo_6   洋舞隊。最近のダンス教室からの参加も数隊あり、洋舞も増えてきて目を楽しませてくれた。

 延々と続くパレードも2時間ほど眺めると厭きたが、まだ今日の夜まで、博多は祭り一色に包まれる。博多っ子の祭り好きには呆れてしまう。

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2010年5月 1日 (土)

古代史の謎81:文武朝の版図確定と地方統治

005  国内全域の律令制化を推進するため、文武朝は版図の維持・確定を図りつつ、地方行政組織・制度を整備した。
 7世紀末~8世紀初頭、東北や南九州は平穏な中で城柵修理が多く、698年、700年に越後国や佐渡国に磐船の柵(新潟県上市)を修造させている。また、698年には大野城・基肄城・鞠智(キクチ)(何れも大宰府防衛の山城)、699年に三野城と稲積城(同じく大宰府防衛、遺跡は未確認)を修理させている。

 九州南部では、大和政権の支配下に入ったのが遅く、682年に大隈隼人と阿多隼人(薩摩半島域)が多数朝貢し、709年(和銅2)までに薩摩国が置かれ、713年(和銅6)に大隈国も設置された。
 更に南部の南西諸島は、677年(天武6)以来多祢(種子島)の朝貢の記録があり、682年(天武11)には掖玖(屋久島)・阿麻弥(奄美大島)からの朝貢もある。
 これらを受け、国覓(クニマギノ)使という使者が698年に南島に派遣され朝貢を求めた。翌年多祢、夜久、菴美(アマミ)度感(徳之島)の人々が朝貢に訪れた。度感の朝貢は初めてである。

 このように版図に維持拡大を図りつつ、律令制下の国内は国・群・里の3段の行政区画を編成し、更に国の上位区分に畿内(大和・河内・摂津・山城)七道(東山道、北陸道、東海道、山陰道、山陽道、南海道(四国)、西海道(九州)の広域行政区分が設定された。
 そして、地方支配は京・難波・筑前の要地とそれ以外の諸国に分け、要地は図の如く左・右京職、摂津職、大宰府が担当して、機内と七道の諸国国司が受け持った。国司は中央から派遣され数年おきに交代して、各国支配をした。
 現在でも残る旧国名の殆どはこの時期に生れたものである。

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