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2010年4月

2010年4月29日 (木)

驚きの成分「パラミロン」

Photo  今、メタボの原因になる中性脂肪やコレステロールを吸収し、体外に排出する機能を持った「パラミロン」なる物質が注目を浴びているそうな。
 このパラミロンとはユーグレナ」という微細藻類にしか含まれていない食物繊維成分だそうだ。ユーグレナは数種あるようで、写真はその一つ。

 パラミロンの表面には無数の微小な穴があり、そこに脂肪やコレステロールを取り込むことができ、しかも消化されずそのまま体外に排出されるそうだ。パラミロンは中性脂肪のほか人体に入った有害金属をも排出する作用を持っており、体内の不要物質を「引き算」するものとして注目されている。加えて便通を改善し、腸管を刺激し免疫機能をアップさせるそうだ。「坑ウイルス」「坑アレルギー」効果もあり、ガン抑制アトピー性皮膚炎の解消にも役立つという。

 尚、この成分を持つユーグレナとは、0.05~0.1ミリの大きさで、鞭毛を持ち運動する動物的な性質と、光合成を行なう植物的な性質を併せ持つ単細胞生物である。池や田など身近にいる「ミドリムシ」のことである。
 大阪府大・名誉教授、中野長久博士等の研究によると、このユーグレナが又優れもので、上記パラミロン以外に多種のビタミン類、ミネラル、アミノ酸、不飽和脂肪酸など人間が体外から摂取すべき栄養素の殆どを総て含んでいるという。又CO2吸収能力も高く、排ガスを利用した大量栽培も可能だそうだ。環境問題と食料問題の同時解決が可能と期待されている。
インターネットで「ユーグレナ」を検索すると、既に健康食品として商品化された錠剤の紹介やユーグレナの生態、機能など詳細が記載されています。

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2010年4月27日 (火)

古代史の謎80:日本初の通貨、富本銭と和銅開珎

Photo  文武朝の治績に貨幣の鋳造がある。従前、最古の通貨は「和銅開珎」であるとされていたが、1999年飛鳥池工房遺跡から30枚を越える「富本銭」(図)が発見され、その地層が和銅開珎出土層より古い事から、最古の流通貨幣と見られている。

 続日本紀の文武朝には銭貨の原料の銅鉱石やアンチモンの貢進の記事が多く、699年(文武3年)には鋳銭司が設置されている。638年(天武12年)には富本銭が存在した事が明らかになり、銅・アンチモン合金が使用されており、この鋳銭司は富本銭鋳造の宮司であると見られている。大宝の遣唐使(702年)が富本銭を持参した可能性は高いという。

2  しかし、貨幣が出来ても流通しないと意味が無い。朝廷は和銅4年(711)に「蓄銭叙位令」(銭を蓄えた者に位階を与える令)を出して、流通促進を図った。しかし、簡単には流通もせず、銭調(貨幣による税)が来たのは、畿内周辺八ヵ国からだけであった
 その後貨幣価値の下落もあり又改鋳の度に、品質劣化が進み、信用は失われていった。以降江戸時代まで、日本は本格的な流通貨幣の鋳造はなかった

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2010年4月25日 (日)

花色が変わるブーゲンビレア

Photo  我家のブーゲンビレア。これは今朝の鉢植えの花を撮ったものである。そろそろ散り始めの状態であるが、花の色が薄いピンクであることがお判り頂けると思う。
 しかし、同一の鉢で、この花が咲いて満開となった頃の写真は下の通りで、3月31日に「花が咲いた」のタイトルでアップロードした時はご覧のとおり真っ白であった。
(好奇心旺盛な方は、念のため、当ブログのバックナンバー「2010年3月」或いはカテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の3月31日でご確認下さい)

Photo_2  毎年このように真っ白に咲いて、途中からピンクに変わる。この現象は別に珍しいことでないのだろうか。少なくとも小生は、花の色が途中で変わる植物をほかには知らない。ご存知の方はコメント下さい。

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2010年4月23日 (金)

庭の二輪

 天候不順でよく雨が降る中、健気にも我家の庭の木は、季節が来ると今年も花をつけてくれた。

Photo  これがテッセン。今年は早春に元肥を入れておいたのが効いたか、大きな花をつけた(バックのツツジと比べると大きいのがわかる)。これが最初の花で、あと数個の蕾が付いているので、続いて順次咲き続けるだろう。
 曇天下の撮影で、フラッシュのせいで色がとんだが、実際はもっと濃い青紫である。

Photo_2  昨年ブログ開始時にもこの牡丹を載せた。これもフラッシュのせいで色落ちしているが、実際はもっと濃い深紅の花である。雨除けをしてないので、雨に叩かれ、やや見すぼらしくはなっている。

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2010年4月22日 (木)

古代史の謎79:法治国家の原点「律令」完成

Photo_3  持統11年(679)持統天皇は草壁皇子の子(孫)、軽皇子に譲位し、文武天皇とした。諡号の通り文武に優れた天皇であったという。
 即位後天皇は律令の編纂を軸に律令国家建設を進め、年号の制定、銭貨の鋳造、版図の維持・確定、そして律令国家の「完成」を知らせる遣唐使派遣を織り込めながら進められた。
 701年(大宝元年)に、それまで中国から継受した律令という法体系を模して基本法「大宝律令」が施行された。「律」は刑罰を定め、「令」は統治の仕組みを定めたもので、この律令により、日本は天皇を頂点とする中央集権国家となり、官僚機構が整備されていったのである。

Photo_4  但しこの年は、律令制度の完成というより、日本型律令制度構築の出発点とも言える。即ち、大宝年間に新たに布告された「新令」や「新律」を順次公布しながら施行していったことの全体を通称「大宝律令」と呼び、あくまでも中国の律令を参考にし、日本の実態に合わせて制定したものである。
 尚、近江令、飛鳥浄御原令、大宝律令は現存せず木簡によって存在が確認されているが、その後の養老律令は、「令」はほぼ伝存し、「律」は一部現存する。下図は律令で定められた身分制度で、この時分から奴隷が存在した事がわかる。

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2010年4月20日 (火)

志賀海神社に参詣

 親戚が福岡市の北部の志賀島(金印が出た島)の休暇村に来たので、迎えにいった。序に、島の入口に有る「志賀海神社(シカウミジンジャ)にお参りした。

1_2  ご本殿の前の拝殿。ご神体は伊邪那岐命が筑紫の小戸の阿波岐原において禊払いをされた際、住吉三神と共に御出現された「綿津見三神(表津、仲津、底津)」で、神裔安曇族によって奉斎されている。全国の綿津見神社の総本宮(海神の総本社)であり、代々安曇氏が祭祀を司っている。
 御祭神が禊払いで出現した神である事から、不浄を嫌い、種々の穢れ・厄・災・罪を祓い清め、海の主祭神で水と塩を支配し生活の豊凶を左右するといわれる。海の守護神なのである。

2  これは威風堂々の楼門。扉に菊のご紋がついているのは、御祭神の左殿仲津綿津見神には神功皇后、中殿の底津綿津見神には玉依姫命、右殿の表津綿津見神には応神天皇が併祀されているからである。
 創建は不明だが2世紀遅くとも4世紀といわれ、昔の社殿は壮麗で、末社375、社領50石を有し、奉仕するもの百数十名いたという。元寇の役には御神意を顕示され、社格も貞観元年(859)従五位上、『延喜式』には明神大社、大正15年(1927)に官幣小社となった。

「君が代」九州王朝説の1根拠?
 
4月、11月の祭礼(山誉め祭り)で、「君が代」が下記のような「神楽歌」として古くから伝わっており、「君が代」の誕生と関連があるとの説がある。
「君が代(ダイ)は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりてこけのむすまで あわれやあれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸(ミガイ)に 命千歳(センザイ)という 云々」とある。 

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2010年4月18日 (日)

古代史の謎78:古代最大の都市、藤原京

Photo  天武天皇が没した(天武15年(686)7月)2ヵ月後、皇太子の草壁皇子も亡くなり、2ヵ年の服喪後、后の鸕野(ウノ)皇女が皇位を継承し、持統天皇となった。

 既に定められていた日本初の総合法典である律令「飛鳥浄御原令」が施行され、理想国家への道を歩み始めていた
 戸籍が創られ、個人への調(税)や力役、兵役も整備され、国、郡、里の地方制度も整った。政府も太政官の下に8省を置き強力な国家機構が誕生した。

 当然行政機構の拡大により、浄御原京は狭くなり、持統天皇は多数の官吏を収容できる新都「藤原京」の建設に取組んだ。飛鳥の北隣、5km四方の条坊制の都市は、2004年の発掘調査で、大和三山(天香具山、耳成山、畝傍山)を含む広大な都市で、その面積は平城京や平安京をも凌ぐ、古代最大の都市であることが判った。中国風宮殿の東西には薬師寺、大官大寺が配された日本初の本格的な都城であったといわれる。

 推定2万人以上の人口を持つ大都市は16年間都市機能を果たしたが、真の原因は謎ながら、大きすぎる故のゴミや下水等の都市問題が原因と見られ、短期間で廃棄されて平城京へと移るのである。

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2010年4月16日 (金)

今満開の花

 当地では開花期間の長かったソメイヨシノも散っていまい、次の花、つつじ、ふじが咲いているが未だ満開ではない。その隙間を埋めるが如く、現在「八重桜」「花水木」「久留米つつじ」が満開である。

Photo_2  「牡丹桜」といわれる八重桜の一種である。今春天候不順で、花付きがあまりよくない中で、この牡丹桜は重たいほどの花がぎっしりとついていた。八重桜は山桜からの改良品種だそうで、年月を経ると先祖がえりして、花が小さくなるといわれている。

Photo_3  これは花水木。最近庭に白い花の花水木を植えている家が多い。写真の花は勿論園芸品種で、花数も多いが色が通常の赤系より鮮やかな赤で美しかったので、カメラに収めた。

Photo_4  早咲きのキリシマ「久留米つつじ」で、今が満開。庭植えの木なので大きな花の塊となっている。

 

 

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2010年4月14日 (水)

古代史の謎77:最古の史書「古事記」「日本書紀」

 天武天皇の命により日本で初めての国史書の編纂が始まった。「古事記」と「日本書紀」である。「国家の成立」という歴史上の転換事実を背景に、天皇家が自らの統治の正当性を裏付けようとしたものである。

Photo_2  先ず「古事記」。天武天皇はまず稗田阿礼に、「帝紀」(天皇家の系譜)「旧辞」(神話・各氏族の伝承)を読み習わせ、阿礼が記憶し暗誦したものを、太安万侶に筆録させたもので、和銅5年(712)正月に元明天皇に奉った。
 漢文ではなく、和式漢文体(漢字を使った日本語)で、神話時代に重点を置き、天皇家の正当性を証する為に書かれた、上、中、下巻からなる。

 一方「日本書紀」。天武10年(681)天皇の命を受け、川島皇子ら皇親6名と中臣大嶋ら官人6名、計12名により編纂され、養老4年(720)に、舎人親王が奏上した。
 漢文による記述や編年体の体裁から、海外とくに中国王朝に対し、「日本国」の正史を伝える書物だったと判る。資料は「帝紀」「旧辞」のみならず、中国・朝鮮の史書、諸誌や地方の伝承などが使われた。異伝についても注記があり、その量は30巻に及ぶ。

 両書とも古代唯一の史書として価値があるが、天皇家の正当性と、対外的な権威を持たせるために、記述内容は史実とは思えない虚構も多く、古代史論議の元である。
 又編者の真偽、編纂の真の目的、成立過程等にも疑問点が多く、古事記偽書説も含め江戸時代まで議論が続いた謎の多い史書である。なお、古事記は万葉集、源氏物語と並ぶ古代の一大叙事詩であり、文学的評価も高い。

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2010年4月12日 (月)

紅葉の花

Photo  これは紅葉の花である。先日神社の境内でこれを見つけた。
私は紅葉の花をこの歳になってはじめてみた。最初、・・・・・ん?、紅葉にはこんな実がなるのかな、なんて思い近づいてよく見ると、小さな花ではないか。・・・・・エエツ!花だ!、多分こんな珍しい花をつける紅葉はきっと希少種なんだと思い、写真を撮って帰ってインターネットで「紅葉の花」を検索してみると、なんと数個のサイトでみな同じような花を掲載していた。

 決して珍しくもなんとも無いのだろうが、私は恥ずかしながらこの歳まで「紅葉の花」は「とんぼのような形」をしたのが紅葉につくが、あれが紅葉の花だとばかり信じて疑わなかったのである。しかし、あれは花ではなく、「実」なのであろうと納得しているが、果たしてそうなのか?

 それにしても、子供の頃から紅葉は家の庭でも見たし、つい先日まで今の我家にも紅葉はあったがこのような花をつけたのは知らない。単なる認識不足なのかなあ。

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2010年4月10日 (土)

古代史の謎76:実力天皇の権力強化と象徴化

 壬申の乱を1ヶ月で制した大海人皇子は都を大津から飛鳥に戻し、翌年飛鳥浄御原宮で天皇に即位し天武天皇となった。

2  天武天皇は律令体制の整備を進めるとともに、貨幣の鋳造(最古の富本銭)や、国史の編纂古事記、日本書紀)を手がけさせ、国家建設に力を注いだ実力派天皇である。
 尚、日本で始めて大王の尊称として「天皇」が用いられたのが、天武天皇であり、「天皇」の呼称の始まりである

Photo  大王位を自らの手でもぎ取った天武朝には太政大臣、左右大臣はおかず、天皇を輔弼したのは皇后をはじめ、草壁皇子、大津皇子その他の皇族である。そして豪族は朝廷の官僚と化していった。
 政治体制の変更の他兵政官(兵武省)の設置伊勢神宮を天皇家の氏神とし、又国史編纂により天皇を絶対化する思想的根拠を確立して、天皇中心の壮大な中央集権国家建設の構想を持ち、それを具体化していった「専制君主」として君臨した事が伺える。

 しかし、天武朝の天皇絶対化思想は、権力強化につながらず、実務は官僚が握ってしまい、究極の「律令政治」が、天皇の象徴化の第一歩だったとする見方がある。
(写真は平成18年に発掘された正殿が二つ並んだ浄御原宮跡で、上図はその復元イメージ)

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2010年4月 8日 (木)

「山笑ふ」て何?

Photo  「山笑ふ」「亀鳴く」「猫の恋」「鞦韆」「竹秋」と並ぶと、俳句を少しでも齧った人は別にして、何のことかさっぱり判らんのが当たり前。これは俳句の春の季語です。俳諧には昔から遊び心があり、こんな言葉を「季語」として楽しんだ。貧しくとも、心には遊びのゆとりを持っていたのでしょう。

 珍妙なこれら季語に付き、若干の説明と例句を挙げておきます。知識の箱にお加え下さい。
山笑ふ:春の生気に満ちて明るい感じの山を「笑ふ」と表現したものです。「春山淡冶にして笑ふが如く、夏山蒼翠にして滴るが如く、秋山明浄にして粧ふが如く、冬山惨淡として眠るが如し」(臥遊録)から季語になったもので、因みに「山滴る」が夏の季語、秋は「山粧ふ(紅葉で)」冬は「山眠る」となります。
 例句 「伐口の大円盤や山笑ふ 阿波野青畝」
亀鳴く:春になると鳴かない筈の亀でさえ、雄が雌を慕って鳴くというが、亀は鳴いたりしない。水を含んで呼吸する音だとの説もあり定かではない。それを季語にしたのは藤原為家(定家の子)の歌に「川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀のなくなり」(夫木集)があり、ここらに由来がありそうという。
 例句 
「亀鳴くや男貧しく茶殻溜め 小林信一」
恋の猫:猫の交尾期は年4回あるが、春が著しいので春の季語となった。ほかに恋猫、うかれ猫、春の猫も春の季語。交尾期の猫は人も恐れず雨風に怯えず、昼夜となく鳴く。発情といわず「恋」と表現したもの。
 例句 
「はるかなる地上に駆けぬ恋の猫 石田波郷」
鞦韆(シウセン):「ぶらんこ」のことで、中国の宮廷では冬至から105日目にブランコ遊びをすることから、春の季語となったという。
 例句 
鞦韆に腰掛て読む手紙かな 星野立子」
竹の秋:竹は普通の植物とは反対に4月頃から葉が黄ばんで来て、葉を落とす。だから春は竹の秋なんである。逆に緑色に輝く秋は
「竹春」といい、秋の季語である。
 例句 
「竹の秋迅き流れが貫けり 林 徹」

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2010年4月 6日 (火)

古代史の謎75:壬申の乱勃発

Photo  天智天皇の死去の翌年、吉野の大海人のもとに、大友皇子が大海人の攻撃準備をしているとの情報が入った。大海人皇子は直ぐに吉野からの脱出と挙兵の準備を進め、天武元年(672)6月22日、近江と美濃を結ぶ不破道封鎖を命令し、24日吉野を脱出し東国へ向かった。

 大海人皇子一行は伊賀を抜け伊勢、尾張へと進んだ。途中息子の高市皇子と大津皇子に合流。伊勢の国司や中小の豪族も糾合した。天智天皇の急進的改革で、特権を奪われた豪族達は、大海人皇子に心寄せる豪族も多く、帰順した。
 
6月27日、大海人皇子は美濃国野上に行宮を設け、本陣とした。これに対し、大友皇子の近江朝廷は東国、吉備、筑紫に派兵を要請したが、地方は殆ど応えず、大海人軍に投降する将軍も現われた。
 
7月2日、大海人は和蹔(現関が原町)に終結したとき全軍に進軍命令を下した。大和と近江の二手に分けて進軍、大和方面軍は箸墓などで大友軍を潰走させ、近江軍も横河、安河、栗田で勝利、大津京を目指した。
 
7月22日、瀬田川の戦いで雌雄を決し、大友軍は大破され、かろうじて逃げ延びた大友皇子は翌日自殺した

 古代最大の戦乱である「壬申の乱」を1ヶ月足らずで制した大海人皇子は、都を飛鳥に戻し、翌年「飛鳥浄御原宮」で即位し、天武天皇となった。この大戦乱を引き起こしたエネルギィーは何処から出たのであろうか不思議(謎)である。

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2010年4月 4日 (日)

早咲きの花

 昨日今日と晴天が続く。桜は何処も彼処も満開で、少し散り始めて花見に絶好の日となった。でも今日は桜と関係なく、本来4月下旬~6月上旬に咲く花が、はや咲いているので紹介。

Photo  これはキリシマ、別名クルメツツジ。通常4月下旬頃より咲き始めるが、今年は早い。
 この種は鹿児島に野生するサタツツジとミヤマキリシマの交配による園芸種で、小さな花がぎっしりと付く。
 江戸初期に薩摩から大阪へ伝わり、京、江戸へと広がった。天保年間(1830年代)に久留米の有馬藩士坂本元蔵が200余種の育種を行なった。現在でも久留米は本種栽培が盛んで約300種あり、「クルメツツジ」の名で親しまれ、5月連休には大規模な花市「花祭り」が開催される。
 因みに、ミヤマキリシマは阿蘇や九重及び霧島などの高原に群生、5月中旬~6月中旬の丁度山開きの頃に開化し、花色に染まる。野生の山ツツジが長年の火山性ガスに晒され出来た品種だそうである。

Photo_2  これはシャクナゲ。九州では5月連休以降、ツツジと同時期ぐらいに、山間で咲く。最近は「シャクナゲ園」などが出来て、又いろんな栽培種が出回っている。しかし、園芸種ではあろうが今時期咲いているのは珍しい。

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2010年4月 2日 (金)

古代史の謎74:壬申の乱序章

Photo  667年(天智6)突然都が近江・大津京に移された。1974年に宮殿遺構が発見され、柱径50cmの宮殿は内裏、朝堂院を備えた、南北300~400m、東西200の宮城であった事がわかった。僅か5年ながら、紛れもなく「日本の都」であった。
 近江遷都の目的は謎めくが、天智天皇の支援勢力の渡来人勢力があったための遷都と思われる。更に当時、唐の脅威に対抗するため高句麗と結ぶための敦賀、近江ルートの確保が必要だった。対馬や筑紫、さらには西日本各地の山城構築と連携しての防御体制の確立が大きな目的であったと思われる。

 遷都の翌668年、中大兄皇子はようやく即位し、天智天皇となった。半島での敗戦の責任回避と共に、各地に防備施設を構築し、氏族制度再編、内政改革と防衛体制の確立で権力集中もなり、非常事態に終止符を打っての即位である。大海人皇子を「大皇弟」と称し、「東宮」に立てても来た。669年天智を補佐した中臣鎌足が没する

 671年(天智10)には王子の大友皇子を太政大臣、蘇我赤兄臣を左大臣、中臣金連を右大臣に任じたが、これにより大海人の立場が微妙になる。
 同年天智が病の床に就き、大海人に後事を託そうとしたが、大海人は「王位は后に譲り、大友王子を太子にして政務をとられる様」進言し、自分は仏道に入るといって、直ぐに吉野へと発った。これを見て「虎に翼をつけて野に放つ様なものだ」と評されたという。壬申の乱前夜である

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