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2010年3月

2010年3月31日 (水)

花が咲く

Photo  冬の間、屋内に取り込んでいた「ブーゲンビレア」である。この花、今は白いがやがてピンクに変わる。その時の方が綺麗になるが、取敢えず冬の寒さの中で咲いたので、ご紹介する。

 植物の生命力の強さというか、季節が来れば、必ず花をつけてくれるのには感心する。その花を美しく感じるか否かは人さまの勝手次第。
 季節の変化を美しく、有難く感じられる様になりたいものである。

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2010年3月29日 (月)

古代史の謎73:白村江敗戦で国政・防備が躍進

Photo  618年中国に唐帝國が興ると、朝鮮3国(高句麗、新羅、百済)はこぞって中国の柵封を受けた。そのうち新羅の王族・金春秋は大化改新2年後大和にも来た人物であるが、帰国後唐に赴き太宗の知遇を得て新羅を唐風に改革し、「武烈王」となって、660年唐と共同出兵し百済を攻略した。

 百済の残党は大和へ、人質だった王子の余豊璋の送還と派兵を求め、斉明天皇と中大兄皇子はこれに応じた。661年正月博多まで軍を進めるが、7月朝倉宮で天皇は客死。しかし派兵は中止せず、中大兄皇子は663年、2万7000人の大軍を朝鮮へ派兵した「白村江の戦い」である。
 だが、情報・作戦不足の倭軍は唐・新羅軍に完敗したのである。
 それが大きな転機となり、その後の大和朝廷は、唐・新羅連合軍の襲来を信じて、大宰府に山城・水城を築き、瀬戸内海、大阪湾、生駒山にかけて城塞で防備し、のろし連絡網を整えた。更に、都を近江大津まで下げて、本土防衛を真剣に考えたのである。

 敗戦により、唐文明の優越を認識した倭は猛然と国政改革に着手し、唐文明を我が物にする努力を始め、律令国家の首都平城京を樹立するまでの半世紀は、古代日本が東アジアの先端水準に達する歴史的躍進期であったのである。
(写真の水城(ミズキ)は両岸の樹が茂り中が見えないが、運河のようなものです。又山城大野城基肄(キイ)など朝鮮式山城を築いている)

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2010年3月27日 (土)

石斛(セッコク)が咲いた

Photo  これはセッコク(長生蘭)の花です。かって東洋蘭に凝って、春蘭、寒蘭、長生蘭(石斛)、富貴蘭(風蘭)など、友達と競い合って作っていましたが、根がずぼらで根気が続かず、手入れせずに残ったのが寒蘭数種とこの石斛のみのとなった次第。

 この石斛は冬の間、自分の部屋の窓際で、水もやらずに放置していたので、花をつけてしまったものです。本来石斛は葉茎の美しさを観賞するもので、花をつけるのは「外道」です。(園芸図鑑には花のついた石斛の写真は見かけません)。これも当初は葉に班が入っていたのですが・・・。

 石斛はデンドロビュームの種類で、主に深山の常緑樹林内の老樹上や岩石上に着生する多年草で、一種の気性蘭です(水をやらずとも湿り気があればよい)ので、怠け者向きです。花期は5~6月ですが、室内に置いたので早く咲いたと思います。本来芳香があるのですが、これは香らなくなりました。
 中国では長生草といわれ、不老長生の霊薬とされたそうで、日本でも始めは薬草としての栽培が始まりで(905年、延喜式)、趣味園芸種となったのは江戸時代中頃だそうです。

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2010年3月25日 (木)

古代史の謎72:未開の地(北方)への遠征

Photo_2  越の国守「阿倍比羅夫」は658年(斉明4)4月、軍船180艘を率いて、既に服属していた津軽の蝦夷を水先案内人として齶田(アギタ:秋田)に来航した。齶田・渟代(ヌシロ:能代)の蝦夷は直ぐ降服し、最後に有間の浜(津軽半島の港か?)に渡嶋(北海道)の蝦夷を招き大いに饗応して帰還した。
 この7月新服属の蝦夷も含め200人余が来朝し、調を献じた。渟代や津軽の蝦夷の族長は冠位を授かった。

 翌659年3月には2回目の遠征をし、飽田(アキタ:秋田)・渟代・津軽の蝦夷350人余と、胆振鉏(イブリサエ:北海道南部?)の蝦夷20人を饗応し、禄を授けた。今回は北海道まで遠征したようだ
 更に翌660年3月
3回目の遠征では、粛慎(アシハセ)という未知の民族と遭遇する。北海道の大河(石狩川?)の河口に着くと、比羅夫軍は粛慎と戦闘になり、粛慎軍を敗った。同年5月には粛慎人47人が来朝し、服属儀礼を行なった。

 最近の調査で古代の東北と北海道の密接な交流が明らかになりつつあるが、中央政府の派遣軍が北海道まで行ったのは古代ではこれが唯一である。659年7月に出航した遣唐使には道奥の蝦夷の男女二人を唐に連れて行き、高宗皇帝に謁見させている。倭国に属国があることを誇示する政治的演出だと言われている
 石の王都の建設と並び、北方遠征は斉明天皇の二大「興事」であり、一連の王権の神聖化、強化策として理解される。

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2010年3月23日 (火)

猫とねずみが仲良し

Photo  大阪バイオサイエンス研究所の小早川夫妻の研究で、哺乳類は匂いを感じる嗅細胞の一部が欠けると、においを感じても匂いから受ける情感が生まれなくなる事を明らかにした。(英ネイチャー誌に発表)。
 即ち写真のねずみは天敵の猫のにおいを感じても、恐怖を感じなくなっているので恐怖は感じず、近寄っているという。お二人の研究はこの嗅覚系遺伝子に関する研究の途上であり、その全体像を明らかにすべくお取り組み中との事。(写真はご夫妻の提供により、毎日新聞が掲載したものである)。

Photo_2  上記と全く関係ない花便り。香椎宮の桜が満開近くなっている(昨日の撮影)。14日開化宣言から1週間以上経過したが、ごく一部散り始めたものの、未だ2、3分咲きの所も多い。
 昨日は最低気温が11℃、最高気温は20℃。今日は最高気温が11℃の雨天。結構寒い日が多く、一気に咲かないので、今年は長期に亘り桜が楽しめそうである。

 

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2010年3月21日 (日)

古代史の謎71:上皇の天皇復帰と石造設備の謎

Photo  白雉4年(653)孝徳天皇と中大兄皇子が不和となり、難波宮に天皇を残し、皇極上皇(母)や大海人皇子(弟)はじめ、公卿・太夫・百官を引き連れ飛鳥に移った。一人残された孝徳天皇は翌年死亡。
 当然中大兄皇子が皇位に就くと思われたが、何故か皇太子にとどまり、皇極上皇が復帰して「斉明天皇」となった。退位した天皇の復帰は孝謙(称徳)があるのみで大変珍しい。

 その上、弟大海人と共に飛鳥の地で改新の大業を開始するものと思われたが、何故か斉明天皇と共に土木事業に打ち込んだという。
 飛鳥岡本宮を建設すると、田身嶺に垣を巡らし楼閣を建設、両槻宮(ナツキノミヤ)と称した。そして、香具山の麓から石上山まで運河を掘り、200艘の船で石を運び巨大な石垣を作った。

 一体斉明天皇は何をやろうとしたのか。最近の酒船石遺跡発掘調査や、亀形の石造りの導水施設(写真)などがあることから、水の祭祀に関する施設らしい事が判明したと言う。呪術の施設らしいが詳しい事は謎のままである。石造施設は中国文化の影響が大きいとも言われている。
 

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2010年3月19日 (金)

地球資源は守れるか

Photo_2  昨日ドーハで開かれたワシントン条約締約国会議は大西洋(含地中海)産クロマグロの国際取引全面禁止案(モナコ提案)を第一委員会で採決。反対68、賛成20、棄権30で否決した。
 当初欧米主要国は「クロマグロも絶滅種として捕獲禁止とすべし」との意見が多かった。寿司ネタとしてマグロ人気の強い日本は30人に上る説得要員団を送り込んでの説得が功を奏したか、大差で否決に持ち込む事が出来た。

 当初この話を聞いたときには、シーシェパードの捕鯨禁止行動と似たような「感情的な」禁止論と思い、今回の結果を「ざまみろっ!」と思ったが、しばらくして「ホントにこれで良いのかな」と思い始めた。
 日本は既に「マグロ養殖」に成功し、数年後は自給できる可能性が大きいので、今回も厳しい資源管理は主張しており、乱獲は戒めてはいる。・・・が、今回反対に回ってくれた中東、アフリカ、東アジヤ諸国の反対論の中には、現にマグロ漁業やその流通に携わり、それなりの利権を得ているので、その利権喪失防止のための反対もあったであろう。

 マグロに限らず、「地球上の資源」は人類が永久に生存してゆく上で欠かしてはいけない。養殖や創生で賄えるものは別にして、自然資源にのみ頼る物は乱獲、乱掘を戒め、別の手段での創生や代替品の発掘が肝要であろう。
 石油資源がいい例であるが、希土類の鉱物資源の代替品発掘や、動植物の養殖・栽培など、地球資源の温存即ち人類の生存をかけて開発すべき課題が沢山あることを思う次第である。

尚、因みに「マグロは日本の食文化」とは言うが、マグロの刺身や寿司を食べるようになったの1950年以降だとの事で、それまでは「ハレの日」の特別な食材だったとか。

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2010年3月17日 (水)

古代史の謎70:乙巳の変(大化改新)の首謀者は?

Photo  蘇我一族の目に余る専横振りを討つ為に、中大兄皇子と蘇我倉山田石川麻呂が共謀し、飛鳥板蓋宮において、皇極天皇の目の前で、佐伯古麻呂と葛城稚犬養網田に蘇我馬子を斬殺させた。以降、中臣(藤原)鎌足らと陣容を整えて、蘇我蝦夷との戦いに備えたが、翌日甘橿丘の蘇我宗本家は燃え上がり、蝦夷は自殺した。
 以上が乙巳(イシ)の変といわれるクーデターによる蘇我一族の滅亡譚で、「大化改新」の始まりであり、衆知のこと故詳細を略す。

 ところが、この乙巳の変の真実は少し違うようで謎でもある
 先ず乙巳の変後、皇極女帝が譲位したのは軽皇子(孝徳天皇)で、中大兄ではない。これは辞退したからとの通説があるが、実は軽皇子は王位簒奪者であり、皇極は譲位したのではなく退位させられたという。乙巳の変は軽皇子と蘇我倉山田石川麻呂によるクーデターだったとするのは、成城大の篠川賢教授。
 その理由は先ず皇極朝には半島三国の政治・軍事的な緊張が高まり、それが国内にも影響し、国内体制を刷新すべく断行された国政革新(大化改新)の序幕である宮中政変だと慶応大笠原英彦教授もいう。

 軽皇子が孝徳天皇となり、中大兄皇子を皇太子に立て、阿倍内麻呂を左大臣、石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内大臣とし、入鹿誅殺2グループの連合政権が発足したのである。
 難波に遷都した孝徳天皇は646年に「改新の詔」を発し、「公地公民制」を施行。ところが、中大兄皇子は653年孝徳を難波に置き去りにし、飛鳥に遷都し、皇極を再度重祚して斉明天皇とした後、668年に自ら皇位継承して「天智天皇」となったのである。
 

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2010年3月15日 (月)

絶縁体で電気信号伝達

 昨日桜開花宣言が出ました。満開は1週間後とか。でも、今日は別の話。
 タイトルは難しげな感じだが、携帯やパソコンは電気信号で伝わっている事はご存知でしょう。その信号が電気が伝わらない絶縁体でも伝えられるという話。

Photo  今まで情報伝達は電導体の中を、信号化された情報が、「電子が移動することによって伝わるもの」と理解されてきた。
 ところが、今般、電気を通さない絶縁体の中を、磁気を使った方法で、電気信号を通す事に成功した人が居る。東北大金属材料研究所の斉藤英治教授のチームである。これは今の銅線を使う方法に比べエネルギー消費量が8割軽減するという。ゆえに今後、革新的な省エネルギー技術開発につながるとの事。

 ど素人にも概念が理解できるように説明すると、磁石には磁力を帯びる(磁気)のものでないとくっつきません。この磁気になる電子は自転しており(スピン)、この電子から電子に伝わる「スピン波」と電流とが交互に交換できる事が発見されていた。
 今回はこの理論を利用して、絶縁体の両端に白金(導電体)を取り付け、片方の白金に電流を流すと、絶縁体との境界でスピン(磁気)に変わり、スピン波を起こし絶縁体の中を伝わる。これが他方の白金との境界に到達すれば、もとの電流に変わり白金線の中を伝わる。
 これだと絶縁体を伝わる間は、電子の移動による発熱が無いので、エネルギー損失は激減する。というものである。大方の概念はご理解いただけましたか。

 鳩山首相の温室効果ガス25%削減も現実味をおびてくるかな?

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2010年3月13日 (土)

古代史の謎69:クーデター予兆、百済宮遷都と百済大寺造営

Photo  628年、推古没後、田村皇子と山背大兄王の二人の後継争いとなった。当時後継者は群臣により、新大王を推戴する慣わしであったが、蘇我蝦夷は蘇我系である山背大兄王を嫌い、もとは非蘇我系であった田村皇子を蘇我系に抱きこみ、大兄王支持の摩理勢を攻め自害させて、田村皇子が即位した。これが舒明天皇である。

 舒明朝は飛鳥岡本宮(橿原市奥山)にあったが、火事に遭い、田中宮に移り、更に舒明11年(639年)に、奈良盆地の真中の百済に遷宮する勅を発した。平野部での造営は無防備だが、舒明朝の自信の表れともいえた。百済宮造営は大規模な工事だったが、併せて大寺を創る詔が出た。蘇我一族の専売特許だった教興隆事業に天皇が乗り出したのである。これが百済大寺である。

 百済大寺九重の塔を持った空前の規模を誇る大寺院であった。奈良県桜井市の1997年からの発掘調査によって、思いがけない大寺院跡が発掘されたのである。吉備池の傍で、「吉備池廃寺」と名づけられ、図の如く、金堂跡、塔跡が確認され、寺院としては最大規模のもので、特に塔跡は群を抜いている。これが、639年に造営開始された百済大寺と見られ、百済宮の発掘も近いと期待されて居る。

 舒明没後、皇極帝となり、愈々天皇家と蘇我一族の根本的対立は激しくなる蘇我一族は天皇家にも対抗しうる強大な氏族でもあった。乙巳(イシ)の変(大化改新)の予兆である。

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2010年3月11日 (木)

桜を見つけたが・・・

Photo  昨日は日本全国に雪が舞う大寒波に覆われた。低気温並びに積雪量は今の時期では新記録だそうで、60年ぶりに記録更新したとか。
 先日まで暖かかったので、もうそろそろ桜が咲いてもおかしくないと見て回ったが、寒緋桜は見かけても、さすがにソメイヨシノは見つからない。

 そんな中、ふと見ると小さな木ながら満開の花をつけた桜を見つけ、スワツ桜か!と近寄って見た。写真のように吉野に非常によく似ており、樹皮は間違いなく桜だが、どうも少し違うようだ。先日テレビで紹介された「陽光桜」とそっくりなので、やはりこれは陽光桜であろうと得心している。

2  尚、下の写真は樹皮は桜であり、桜の種類とは思うが、違うのかな? 何故か花が皆下向いている。色合いは美しいが、やはり花は上向いているのがいい。

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2010年3月 9日 (火)

古代史の謎68:太子の遺産、遣唐使

Photo   推古に代わり、即位した舒明天皇2年(630年)に第一回遣唐使が、隋に代わって起こった大唐国に送られた。注目されるのが、614年に遣隋使であった犬上君御田鍬と遣隋使と共に渡航した元留学生の薬師(クスシ)恵日だったことである。

 特に恵日は推古31年に多くの学問僧と共に帰国したばかりで、5年間の留学経験の報告として「大唐国は法式備わり定まる珍しき国なり。常にすべからく達(カヨ)うべし」と唐国との国交を開くべく天皇に上奏している。

 ここで重要なことは御田鍬も恵日も聖徳太子が行なった遣隋使の成果がここにあらわれ、活動し始めたことだ。二人とも舒明4年に帰国したが、その際唐の使者高表仁を伴い、又遣隋使時代の留学僧らも引率帰国し、新時代を開く人材を集めた
 これらの人材が大化改新の中大兄皇子や中臣鎌足に対し、最新最高レベルの学問を伝授した師匠格の人物(高向玄理、南淵請安ら)であり、事実上の大化改新の功労者となったのである。このような形で太子の念願が叶ったと言える。

 因みに遣唐使は朝貢の形で、この後200年間続いた。

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2010年3月 7日 (日)

肥満は悪くない!?

 昨夜放送のNHK番組「追跡!A to Z」のタイトルである。
 今、高齢者は特定健診が義務付けられ、生活習慣病予防のため、血液検査等のほか、身長、体重、腹囲測定によりBMI(肥満度)を算出している。
 ところが、昨夜の放送これらの数値基準の必要性を全否定し、意味が無いことを伝えた。これは今までの常識を覆した新説で衝撃であったので、記録の意味も含め投稿記事として残す。

 内容の概要は以下の通りである。
従来、皮下脂肪及び内臓脂肪による肥満は、高血糖ひいては糖尿病の原因で、特に内臓脂肪が多い事を危険視してきた。
 然るに、これら脂肪は余剰摂取カロリーを粒状の脂肪の形で体内貯蔵しているもので、これら自身が健康上悪いことはないという。

 怖いのは第三の脂肪「異所性脂肪」である
これは不定形状の糊のような脂肪で、上腹部の各種臓器(心臓、肝臓など)に堆積し、各臓器の機能を損なうのは勿論、臓器そのものを壊すという。勿論胆嚢も犯され、インシュリン分泌が低下し糖尿病にもなる。
 だから、皮下脂肪や内臓脂肪が多く、太っているか否かは全く関係なく、痩せている人でも「異所性脂肪」が増えてくる事が怖いのである。むしろ、皮下脂肪・内臓脂肪の多い人は、脂肪の貯蔵庫を持っているようなものだから、耐久力がある逆に貯蔵庫を持たない痩せた人は、摂り過ぎの脂肪が異所性脂肪になりやすいので、気をつけねば成らぬという。

 尚、この異所性脂肪は運動により減少しやすいので、1日1万歩の歩行で十分対応できるという実証結果(3日間で減少)も放映されていた。
 結論は食べ過ぎず、運動を欠かさない事である。

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2010年3月 5日 (金)

古代史の謎67:聖徳太子、謎の死

Photo  生前の聖徳太子についても謎が多く、厩戸王とは別人であるとする説から、17条憲法は太子の作ではなく偽作だとする説など、真実は謎である。
 8世紀初頭に作られた書紀による聖徳太子像や法隆寺再建の7世紀後半に盛んと成る「太子信仰」による厩戸王の虚像の部分が多いのは確かである。

 それにも増して、太子の死は全くの謎とされている。
 厩戸王は天皇家と蘇我氏の血を受けたエリート中のエリートで、推古天皇の摂政として多くの斬新な改革を成し遂げた。しかるに晩年は政治を離れ、斑鳩の里に閉じこもり隠遁生活をしたのは何故か。何か隠された理由があると見られるが、大きな謎なのである。

 太子の死「日本書紀」は推古29年(621年)2月29日とする。しかし、「法王帝説」や法隆寺釈迦三尊および天寿国曼荼羅繍帳の銘文は共に、推古30年2月22日とするので、後者が正と見られている。即ち、推古29年12月に母、穴穂部間人皇后が亡くなり、翌年太子が発病、后の膳(カシワデ)夫人も共に病み、2月11日が亡くなり、22日後を追うように太子も亡くなった病死は不自然で、自殺或いは毒殺説まであるが死因は謎のままである。

 相継ぐ急死に続き、子の山背大兄王までもが、権力の絶頂にあって権勢を欲しいままにした蘇我一族の入鹿に殺害され、太子一族は根絶やしにされた
 一体何があったのか。大きな闇に包まれた謎であり、原因は不明であるが、中国型の権力を持った皇帝像への変貌の兆しを見せ始めた大王と、政治の実務を握り権勢を持つ蘇我氏の根本的な対立(大化の改新)への予兆であったのか

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2010年3月 3日 (水)

モクレンかコブシか

Photo  はやモクレン(木蓮)が咲いたかと思って写真を撮った。が、コブシ(辛夷)との見分けが出来ずもしやして間違ってないかと不安になった。薄紫色のモクレン(色の着いたコブシはない筈)をよく庭先に見かけるが、形状はそれと全く同じであり、間違いないと思って撮った物である。白いので「ハクモクレン」といわれる物の積りである。

 毎年、モクレンかコブシかの話をしているが確たる区別が出来ない。それでインターネットで調べてみた。先ずモクレンの項を見てコブシとの差異をみると、
1.花弁が開ききって咲く(花弁が分かれて)のがコブシ。
2.コブシは蕾のとき皮を被り、開いた花では花の下に小さな葉っぱがついているが、モクレンにはない。とある。

 そこでこの写真の花、良く見ると、確かに蕾はまだ皮を被っており、開いた花の下に小さな葉っぱ様のものが付いているように見える。するとこれはコブシなのか。
 念のため、次に、コブシを検索すると、花の下の葉っぱとは、はっきり「葉」と判るものを付けている事が掲載写真で判明した。したがってこの写真は間違いなくモクレンだと判った次第である。

 それにしても、どちらとも判らぬままに、ようこの歳まで過ごしてきたものだと、自分であきれた次第。
 だが、考えてみると、自分にとってどちらでもいいやと思うものについては、ついいい加減にしてやり過ごしている事が多いと大いに反省している。

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2010年3月 1日 (月)

古代史の謎66:焼失した太子の斑鳩寺(法隆寺)

Photo  「斑鳩寺(法隆寺)」は、厩戸王(聖徳太子)が605年にそれまで住んでいた上宮(カミツミヤ、桜井市付近)から斑鳩に移り住み、斑鳩宮を建てた際、隣接して建てたとされる。斑鳩宮は現在の法隆寺東院伽藍の位置(夢殿の傍ら)にあって、以後、蘇我氏によって滅ぼされるまで、斑鳩宮は厩戸王一族の本拠地であった。

 厩戸王は若いときから仏教興隆に努め、仏道修業に打ち込んだ。その影響もあり、斑鳩には法隆寺以外にも多くの寺院が建てられ、当時の最も先進的な文化が伝えられて、建築、美術、文学、紙、音曲など先進芸術文化が伝来した。

 この法隆寺について、「日本書紀」天智9年(670年)に「夜半之後に法隆寺に災けり。一屋も余ること無し。大雨降り雷震る」とあり、これを根拠に歴史学者喜田貞吉が、創建法隆寺の焼失と現法隆寺の再建説を出し、論争となった。
 しかし、1938年に現在の法隆寺境内の東南の方向で、四天王寺式の伽藍跡(若草伽藍跡)が発掘され、それが創建当時の法隆寺であると見られ、現法隆寺(西院伽藍)は白鳳期に再建されたものとの説が有力となった。

 現法隆寺について哲学者梅原猛氏は「隠された十字架(法隆寺論)」を表わし、法隆寺再建は、厩戸王一族の祟りを恐れて藤原一族が、太子の怨霊を鎮めるため建立した「鎮魂寺」であるとの論を展開されている。
 尚、法隆寺の柱は「エンタシス」といわれるギリシャ・ローマ建築様式の影響が見られる。又、ヨーロッパ文明の遺品や影響ある工芸品で、シルクロード経由で運ばれてきたものが保存されている。

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