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2010年2月

2010年2月27日 (土)

春先天候異変

 わが庭先の隅っこにある木瓜。日当たりが悪いせいか、通常は他所の家の木瓜が咲いて3週間ほど遅れてやっと咲く。だから、普通は3月上旬にならぬとわが木瓜は咲かない筈2 。然るに今年は早くも咲き始めた。即ちもう完全に春になったのか。

 確かに気温も高い。今週初めは20℃を超えた日が三日ほど続き、平年の4、5月頃の気温だったとか。昨日一昨日とは15、6℃だったが、平年より高く、明日以降は又17、8℃に上昇、4月頃の気温になる予想である。

 この分だと桜は3月中旬に満開となるかも知れない。本来少しずつ暖かく成って行き春が近づいてくる。その間木々や草花が芽を出し本格的な春になってゆくのを楽しみながら、桜を満喫するところに到達するのだ。
 勿論心情の変化と共に人間の身体も徐々に春に備えて体調が整うようになっている。

 なのに、こんなに急激な春の到来では、全て万物が戸惑うのでないだろうか。尤も、鹿児島に来た鶴も、あちこちにいる鴨も通常通り亘ってきてをり、帰って行くようだから、動物(昆虫などの下等動物は判らぬが)は気温とは別に、気候の生活習性が有るのかな?

 

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2010年2月25日 (木)

古代史の謎65:中国先進文化をもたらした遣隋使

Photo_2  厩戸王が摂政のとき(600年)、倭国は100年間途絶えていた中国との国交を再開すべく遣隋使を派遣した。隋の先進的な文化や制度を吸収する事の他、国内での朝廷の権威を高めることや朝鮮半島への影響力を回復する事が目的であったと見られる。

 第2回遣隋使は607年に小野妹子が「国書」をもって派遣された。「隋書」倭国伝条によれば「大業三年、其王多理思比孤遣使朝貢」とあり、大業三年(推古天皇15年(607年)に王である多理思比孤(聖徳太子の事と解されているが本当か疑問)が使いを遣わし朝貢したという。
 
そしてよく問題となる「其国書曰、日出處天子、致書日没處天子、無恙云々」とあり、国書に曰く、日が昇るところの天子が、日が沈むところの天子に書を送る。恙無きや」というもの。
 この高飛車ないい振りで、
中国の天子(皇帝)にたいし、東の野蛮国の王が天子とはなにごとかと怒り、中国の煬帝「蛮夷のもの、無礼なるものあり、復をもって聞(フン)することなかれ」即ち相手にするなと怒ったのである。

 がしかし、当時高句麗と倭との交流もあり、高句麗を敵に回すのは得策でないと判断した中国は止む無く日本とも交流し、15年間に4回の遣隋使を受け入れている。それにより、日本は中国の諸制度に学び、冠位12階や十七条憲法の制定などを行い、更に遣唐使へと続くわけである。

 

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2010年2月22日 (月)

高齢者の筋肉痛と疲労

 小生のホームページ(http://hihabe.com/)に関する話。これを作成した段階で、老化に関連して運動と疲労について若干記述しているが、最近新しい見解が出ているので紹介し、ホームページの一部訂正に代える。

1.先ず筋肉痛の話
 歳をとったせいと思い込んでいた事。少し無理して長時間(激しくはなくとも)の運動や庭仕事をしたあと、1~2日後、腕や足・腰が凝って痛くなる。若い時分はこんな事はなかったので、てっきりこれは歳のせいとばかり思っていた
Photo  ところが豪エディス・コーワン大、野坂和則教授によると、左図の通り各グループ10~12人について調べたところ、年齢による筋肉痛発現の時間差はないという。尚、この遅く現われる痛みは「遅発性筋肉痛」(横軸を「日」でみる)といって、運動による筋肉の炎症による痛みだが、炎症が出るのが遅いので、後で発現するもので、老若には無関係とのことである。又、直後にでる痛み・凝りは「現発性筋肉痛」というが、歳とると痛みが出るほど筋肉を使わないだけのことだそうである。

2.疲労原因は乳酸ではない!
 「運動や労働による体内代謝の結果発生する乳酸が、疲労を感じさせる物質であり、この乳酸の体内蓄積が老化を促進する」との見解がわがホームページ作成時の主流であった。
 しかし、東大、八田秀雄准教授は「乳酸は老廃物ではなく有効なエネルギー源」とする。エネルギーは細胞の中のミトコンドリアで、糖や脂肪から生成される。急激な運動ではその時発生する乳酸の量が多いので、ミトコンドリアの処理が間に合わず一時的に余ってしまう。しかし、1時間もすれば元のレベルに戻るのが疲労物質でない証拠疲労はもっと複合的な要素で起こる現象だ、との説である。
 尚、筋肉痛は同じような運動を日常的に行なえば軽減される由。

  

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2010年2月20日 (土)

古代史の謎64:官僚の出現(冠位十二階と17条の憲法)

Photo  推古朝603年に定められた「冠位十二階」は、それまでの世襲制の氏姓制度に代わり、個人の能力や功績により人材登用する位階制度であり、大臣(オオオミ)の蘇我本宗家と地方豪族を除く、諸豪族を朝廷の官僚として序列化したものである。

 徳、仁、礼、信、義、智の儒教六つの徳目を夫々大・小に分かち、12階から構成し、儒教の礼の観念によって国際的にも通用する政治秩序を作り出そうとしたものである。当初聖徳太子の考案によると考えられたが、近年では、朝鮮三国の官位の制度、特に高句麗、百済の影響を受けて創られ、むしろ蘇我馬子の関与が大きいと見られている。

 又、書紀に依れば同じ603年に「皇太子親(ミズカ)ら肇めて十七条憲法を作る」とあるが、その真偽は江戸時代より議論の的となっている。が、太子の作かどうかは別にして、十七条憲法推古朝に出来たとの見方が大勢をしめる。
 この憲法は、君、臣、民の三階層の内、臣の従うべき規範を示したものといわれている。和・礼・三宝など儒教、仏教の教えが強く出ており、推古朝よりあとの諸制度との整合性も無いことから、やはり推古朝に制定されたものと見るのが妥当とされる。

 即ちこの憲法は、蘇我政権の政策が、遣隋使との絡みも含めて、うまく適合している内容であるとも言われており、これも太子の手によるかどうかは甚だ疑わしいとされている。

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2010年2月18日 (木)

梅の香

 昨日は久しぶりに晴れて、空気は冷たいものの日差しの中ではもう春の気分だった。
「東風吹かば におひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」と菅原道真に詠われた大宰府の梅林園は、きっと今頃、見頃であろうが、今年は何かと雑用に紛れ、観梅にも行けずに居る。

Photo  紅梅より若干遅れて咲き出した白梅も満開。何時も歩いているウオーキングコースにある梅である。よく「梅の香かおる云々」といわれ、上記の歌も「におひ」が詠われているが、「梅の香」てそんなに薫りますか?
 しかし、昨日は珍しく梅の香りに気づき、つい写真に撮ったものです。梅の花が香るには何か条件があるのではないだろうか。「温暖で、風がなく、薄日のさすような日」というような日とか・・・。(花が香るのは、交配のため昆虫を寄せつけるために、であろうから、昆虫が飛ぶような条件の日かな)

 このブログの「風来香」も梅の香が流れてくることからとった漢文の一部なので、気になるところです。ご存知の方お教え下さい。

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2010年2月16日 (火)

古代史の謎63:聖徳太子の真偽

Photo  物部守屋没後、炊屋姫(カシキヤノヒメ:後の推古天皇)と群臣の推挙で泊瀬部皇子が皇位につき崇峻天皇となる。5年後(592年)崇峻に嫌われていた馬子が炊屋姫の勅を得て、倉梯宮(桜井市)で暗殺した。最高権力者となった馬子は大王暗殺をも、平然として為しうるほどに成っていたのである。

 このあと、次の天皇位を誰に継がせるか、馬子は悩んだ様である。順当ならば敏達天皇の第一子「彦人皇子」、ついで異母弟の「竹田皇子」、孫に当る(甥でもある)「厩戸皇子」が皇位継承者である。
 だが、彦人は病弱であったから、有力候補は敏達と炊屋姫の間に生まれた竹田皇子か、用明天皇の嫡子である厩戸皇子(後の聖徳太子)である。

 しかし、何故か竹田皇子は拒絶し、厩戸皇子も辞退している。結局炊屋姫が継承し、初の女帝「推古天皇」となった。当初短期の就位の積りが、在位36年に及び、その間竹田皇子も厩戸皇子も亡くなった。蘇我一族と天皇家の拮抗が原因なのか謎である。
 又、厩戸皇子は皇太子に就いて、推古天皇を補佐したといわれるが、世にいう「摂政」として仏教を積極的に導入、冠位十二階、十七条憲法制定、遣唐使などに手腕発揮したというのは、かなり疑わしく、後生の作り事との説が多く、「厩戸皇子と聖徳太子は別人」説もあり、これも謎だが聖徳太子は書紀による虚構説が強い。

 事実、朝廷を支配したのは推古天皇ー蘇我馬子ラインであり、厩戸皇子は太子ではあったが、政治の実際には携わっていないとされる。勿論「聖徳太子」の称名は後世のことである

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2010年2月14日 (日)

コーヒーが体にいい?

 最近コーヒーが身体によいという話をよく聞く。
 そこで「コーヒー」がいいという意味について薀蓄を傾けてみよう。

 先ず人間が食物を体内で消化、吸収し、代謝するとき体内には「活性酸素」が発生します。普通の酸素分子より原子結合力の強いものです。これが細胞を老化させる、即ち我々が老化する最大の原因物質だ。

 では特に多くの「活性酸素」が発生するのはどんな時かストレス、紫外線、食品添加物の過剰摂取、激しい運動、呼吸など。通常の生活で活性酸素が発生するのはやむを得ませんが、出来るだけ速やかに消去する必要がある。即ち出来るだけ消去力がある「抗酸化物質」を摂取し、上記発生原因を抑制することだ
 つぎに「活性酸素」の弊害はどんなことか。先ず老化を促進。アトピー性皮膚炎、動脈硬化、糖尿病、白内障、細胞を傷つけ発ガンなど
 この「活性酸素」を減少、消去するには? ポリフェノール、ビタミンCやE、コエンザイムQ10などの抗酸化力のあるものの摂取が有効
 そこで、ポリフェノールを多く摂取できる食品は? タンニン(茶のカテキン)、色素成分のアントシアン(葡萄など)、フラボノイド(紅茶、柑橘類)、緑黄野菜に豊富である。

 というわけで、ポリフェノールを沢山摂取すれば健康に良いわけだ。
近藤和雄氏(御茶の水女大教授)らの調査では、日本人の御茶やコーヒーの飲料摂取量は1日1.1L。ポリフェノール換算で約850mg。このうちコーヒーでの摂取量が最大(含有量が多い)であるという。
 1日の理想的摂取量は1000~1500mgのポリフェノール赤ワインも含有量が多いが、アルコールによる「動脈硬化」や「肝臓病」の弊害があるので「フレンチパラドックス」といわれる。

 最後に健康維持にはポリフェノールもいいが、バランスの取れた食事。適度な運動。ストレスの少ないライフスタイルで、香りの良いコーヒーでくつろぐことだそうだ
(注:コーヒーのポリフェノールは苦味成分である「クロロゲン酸」で、利尿作用、口臭予防、動脈硬化予防の効果もある)
 

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2010年2月11日 (木)

古代史の謎62:蘇我馬子と物部守屋の抗争

Photo  敏達天皇が没し(585年)、その殯(モガリ)宮で蘇我馬子と物部守屋の対立が表面化し、その二人が嘲笑し合う事があって、仏教受容での対立は一層深まった。
 このあと、欽明天皇の第4子、大兄皇子が即位し、用明天皇となる。用明の母が蘇我稲目の娘堅塩姫(キタシオヒメ)であるので、馬子の後押しが有ったと見られる。当然物部守屋は危機意識を深め、欽明妃の三男穴穂部皇子の擁立を画策した。

 587年、用明天皇は病気となり、仏教への帰依を表明し、その可否を重臣に協議させた。崇仏派と廃仏派の対立が再燃し、守屋と中臣勝海は反対したが、馬子は支持した
 この会議中に身の危険を知らされた守屋は抜け出し手勢を集め、馬子は急遽兵をあつめ、守屋と組んだ穴穂部皇子を殺害させた。用明天皇は間もなく没した。ついで、馬子守屋討伐を決意し泊瀬部皇子(崇峻天皇)・竹田皇子らと守屋討伐の兵を挙げた

 守屋軍はよく奮戦したが守屋が矢に射られると総崩れとなり敗北した。書紀に依れば、乱後馬子方に加わった厩戸皇子(聖徳太子)は四天王寺を建立し、馬子も飛鳥寺を建てたという。但し四天王寺建立は年代があわないという。
 斯くして蘇我馬子の権勢は増大してゆくのである。

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2010年2月10日 (水)

「高さ」は「ちから」か?

 高層建築(或いは構築物)は「ちから」(権力)の誇示といわれるのが、鈴木博之氏(青学大教授、建築史家)。

 話は「東京スカイツリー」。現在、工事は既に300mに迫っているという。東京タワーが333mで、現在東京で最高の構築物であるが、スカイツリーは情報伝達の電波送信施設として、より多くの容量を、より遠くまで(広域)届けられるようにと建設が始まり、昨今都内各所からその姿が見えはじめた。

 完成すれば634mとなり、これは武蔵(むさし=634m)に因んだというが、「武蔵」好きの東武本社が業平橋構内にあることも関係しているとも言われる。

 ところで、人は何故高層建築物を作りたがるのかが本稿の主題。鈴木先生は、「高さは力の表現としての意味を持つ」といわれる。具体的にはトヨタのビルは名古屋一の高さにこだわり、また東京都庁は明らかに高さにこだわった由。
 過去、国会議事堂も竣工時は都内最高、三越も竣工時は都内最高だった。現在世界最高は今春竣工したドバイのブルジュ・ハリファで828mだそうだ。

 そう言われば、信長は琵琶湖東岸の安土の200m弱の小山に高層の城郭を築いた。残念ながら、焼失したので正確には不明だが、権力が「高さ」を求めた事例であろう。

 鈴木氏は言う。「高さ」は希望の象徴か、奢りの表れか、はた又繁栄の証か。「高さ」を求める情熱はバベルの塔以来、さまざまな逸話が纏わりついていると。

  

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2010年2月 6日 (土)

古代史の謎61:仏教受容の是非・崇仏論争

Photo_6      仏像や経巻を前に欽明天皇は、群臣にその受容の可否を問うた蘇我稲目は「西蕃諸国(朝鮮)はこぞって礼拝している。倭国だけが拒否はできない」と答えたが、物部尾輿と中臣鎌子は「わが国の王が蕃神を礼拝されればきっと国神の怒りを受ける」と反対。結局欽明天皇は受入熱望の稲目のみ仏教信仰を許した。所謂崇仏論争の始まりである。

 物部・中臣両氏は守旧派で、拝仏派の中心的存在であり、改革派の蘇我氏とは政治的に対立していた。そこに仏教受容の可否で更に対立は激化した。
 稲目は欽明から授かった仏像を安置し仏道に励み、家を寺にした。ところが疫病が流行り死者が多数出たので、物部尾輿らは国神の怒りとし、天皇の許可を得て仏像を投棄し、伽藍に火を放った。これが最初の「破仏」である。

 その後仏教信仰は停滞したが、弥勒の石像が百済からもたらされ、蘇我馬子が仏殿を作り、弥勒を安置したところ、舎利が出現し、不思議な霊験を示したという。585年には大規模な法会を催し、各地に堂塔を建てた。
 馬子が疫病にかかると、物部守屋と中臣勝海は疫病流行は、馬子の仏教信仰によるものと敏達天皇に訴え、仏教を禁止した。これが2回目の「破仏」である。

 その後、用明天皇が仏法に帰依せんとし、両派の対立が険悪になる中、用明天皇没後、蘇我馬子は穴穂部皇子を担ぐ守屋を倒し、崇峻天皇を擁立。専制的な独裁政治を敢行する様になる。崇仏論争は元々政治的な対立の中での抗争であった。

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2010年2月 4日 (木)

輪廻転生と解脱

 「時は巡る」と「時は経つ」とは時間に対する感覚が異なるという話で、「時間感覚は古今東西異なっているが・・・・」という中川恵一東大病院准教授の話。面白いので、要点を転記させて頂く。

 原始共同体社会では、時間は天体の動きや季節の循環のように「繰り返す」もので、「時が経つ」という感覚はなかった。インド、ギリシャ文明では、時間を「円」のように回るものと捉えていたという。
 輪廻思想の根底には、この時間の観念が根底にある。終わりの無いのが円の特徴で、インド哲学や仏教がめざす「解脱」は終わりの無い時間の輪からの脱出に他ならないという。

 一方、キリスト教や近代西欧文明の出発点となったユダヤでは、時間は右肩上がりの線分のイメージで捉えられている。旧約聖書の「天地創造」によって世界は始まり、「終末」によって歴史は終るという考え方だ。この始まりから終わりに向かって、一方向に流れる時間、これが現代人の時間感覚である。そこから「一回限りの人生」「短くはかない」との思いが出て来る。

 ところで、日本人ユダヤ・キリスト教的な「時間は一方向に進み後戻りできない」との感覚を受け継ぎながら、歴史の終末は意識してない。又天体や宇宙に関する科学は、広大な宇宙と永遠の未来という感覚を植えつける。実際日本人は極端な「未来志向」をもっており、科学・技術だけでなく、視点は常に未来にあると中川氏は言われる。将来の給料のため今を犠牲にして働く姿が象徴していると。

 この未来志向は、時間感覚を、終わりのある「線分」を終わりの無い直線に変容させたように思われるとも。
 ところが、地球にも宇宙にも寿命はある。ネズミの寿命は数年だが、ネズミは一生を「短く、儚い」とは感じてない筈。
 歴史や文明が築いた感覚に基づく私たちの勝手な思い込みが、時間の感覚をゆがめているとも断じておられる。

 

 

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2010年2月 2日 (火)

古代史の謎60:仏教伝来はいつか?

Photo  百済から正式に日本に仏教が伝えられたのはいつか。日本書紀では欽明天皇13年(西暦552年)、百済の聖明王が仏像と経論を朝廷に送ってきたとし、これを「仏教公伝」としている。
 しかし、「聖徳法王帝説(聖徳太子伝記)」や「元興寺縁起」等では欽名天皇戊午年(538年)とあり、これが「仏教公伝」の定説となっている。

Photo_2  仏教そのものが日本に入ってきたのはもっと前である。記録にあるのは、比叡山延暦寺の「法華験記」に、僧禅岑の言葉として「継体天皇18年(522年)大唐の漢人案部村主、司馬達止が大和高市郡にきて、本尊を安置し、帰依礼拝した。人々は大唐の神だと言いはやした」とあり、信頼されるものだという。

 尤も中国の仏教は、4世紀中頃、中国から半島に伝わり、6世紀初頭には百済に伝わった。このことから、倭国にも仏教を信仰していた渡来人なども大勢来ていた訳だから、仏教そのものは、倭人の信仰対象とならなくとも、6世紀初頭には、倭国内には入っていたであろうと想像される。

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