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2010年1月

2010年1月31日 (日)

春が来た

Photo_2   節分が近づき、あちこちの寺社では豆撒きが行なわれている。節分とは、季節の変わり目で、節を分ける日のことで、立春、立夏、立秋、立冬の前日のことであるが、取分け立春前日の節分には「豆撒き」の行事を行なう。

 正式の節分の行事は、夕刻に柊(ヒイラギ)の枝に鰯の頭を刺したものを戸口にたて、「鬼打豆」と称して、炒った大豆をまく。しかし、地方によっては落花生を殻のまま播く(拾って食べられるように)とか、「鬼は外、福は内」との掛け声が普通だが、「鬼も内」と言うところもあるそうだ。鬼を縁起物とした行事や祭のあるところや、姓に「鬼」の字の付く家ではそうすると聞いた。本当かな?

 今年は節分が2月3日よって立春は2月4日。これ以降は春と称し、俳句の季語は立夏までは「春」となる。
 梅の花も紅梅は写真の如く満開に近づき、白梅も当地では三分咲きといったところである。日本の社会経済も何とか春に向かって欲しいものである。 

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2010年1月29日 (金)

古代史の謎59:朝廷の地方統治強化策、国造と屯倉

Photo_2   継体・欽明朝は、倭王権の中央・地方の支配機構が飛躍的に発展した。まず応神朝以降各地に設けられ始めた「屯倉」(ミヤケ)、次いで国造(クニノミヤッコ)などを設置し、地方統治機構として、王権支配の浸透を図った。
 後には蘇我稲目により、欽明朝以降「部」「氏」が整備され、身分や支配機構を確立した「氏族制度」により、朝廷の支配管理システムが完成するのである。

 「国造」と「屯倉」が成立する直接のきっかけは6世紀初頭の「磐井の乱」で、「糟屋屯倉」(福岡市近辺)設置が記録に残る最初の屯倉であり、「葛子」が初めて「筑紫国造」に任命されている。

2  国造のミヤッコとは「御奴」、即ち大王の下僕の意である。5世紀では服属した地方豪族は王宮に出仕し、在地支配は任されていた。しかし、6世紀に入り倭王権の官として国造に任命された地方豪族は、王権の代行者として行政権、裁判権、軍事権、祭祀権を持った
 国造は吉備臣・出雲臣のように、臣・君の姓を持ち、王権をも凌駕する強大な首長がいる。ついで河内の直、紀の直のように、(アタイ)の姓を持つもので、近畿地方に多い。更に、日下部直や檜前舎人直のように部集団で支配領域は狭いが、王権への従属度の強い国造の3タイプに分別できる

 屯倉朝廷の直轄領で、王権の経済基盤となったものである。書紀以外では屯家、三宅、屯宅、御宅或いは官家とも書かれる。よく言われる、倉を中心とした経営体との概念とは異なり、領内の政治的・軍事的拠点であり、国の支配の拠点なのである。ここを拠点に国造・伴造の地方官制を運用し、王権の必要な物資の調達・集積、徭役労働・兵役徴発を行なったのである。

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2010年1月27日 (水)

椿事

 山茶花も散り始め、ぽつぽつと椿が咲き始めた。ところで、「春の椿事」なる言葉を聞いた事がある人は多い筈。でも今時の若い人たちは「椿事」を読めたであろうか。これは「チンジ」と読む。で、その意味は「突拍子も無い珍しい出来事」です

 何故珍事にこの椿事をを当てるのか。今朝の毎日新聞の「余禄」にこの話が載っていたので、インターネット、広辞苑、漢和辞典など繰って調べた。凡そ共通する解釈は次のようだ。

 先ず初めに、椿に似た(とう)という字がある。これは事件などを数える数詞として使われるものであるが、江戸時代日本人がこれを誤用したと言う説である。

 もう一つが荘子に、大椿(だいちん)という大木の話がある。即ち荘子ー内篇・逍遥遊に「上古有大椿者、以八千歳爲春、八千歳爲秋」(上古に有った大椿は、八千年を春とし、八千年を秋とした)とあり、三万二千年が人間の一年に当たるという樹木「大椿」があるが、この大椿が花を咲かせるということは滅多にないわけで、滅多にない珍しい事を指して「椿事」というようになった。という説である。

 この後者の説が多くの支持を得ているようである。
 尚、椿事は「闖事」から来たという説もあるようであるが、これは「椿事」の椿とは関係ない話である。
 又、「椿」という字は中国ではまったく別の植物の名前であり、日本でこれがツバキに当てられたのは、「木」の「春」という春先の華やいだ気分を込めた日本での造語であるらしい。従って「椿事」も目出度い、祝い事での出来事に用いられるので、不祝儀の出来事などには使わないそうである。

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2010年1月24日 (日)

古代史の謎58:継体朝後、二王朝並立?

Photo  継体天皇は「書紀」では531年、「或本」(書紀付属書)によれば、534年に崩御(百済本記による)とある。しかも「書紀」は、このあと安閑天皇即位までの異例の二年の空位を置いている。
 これは、継体崩御後の倭王権に何らかの政変を想起させ、更に継体後の安閑・宣化即位とは別に531年欽明即位の文献もあり、二王朝が並立したのかと思わせる。

 この点に関し、かって喜田貞吉氏「両朝並立説」を唱え、戦後は林屋辰三郎氏「継体・欽明朝の内乱説」を提起した。
 林屋氏は継体朝を継体ー大伴政権と捉え、継体没後の辛亥年に「天皇及び太子・皇子が死んだ」クーデターが起こって、蘇我稲目に擁立された欽明ー蘇我政権が誕生したとする。これに大伴金村が対抗して、二年後に安閑・宣化ー大伴政権を樹立し、両朝が対立、内乱状態が9年間続いたとするものである。

 この内乱説は、「太子・皇子が死んだ」としながら、これを擁立するという矛盾があり、「クーデター」のあった証拠が無い。又、「或本」では継体ー安閑の間に空位は無く「百済本記」とは一致しない
 両書の紀年の何れに信憑性があるか。三品彰英氏は紀年に3年の差がある二種の「百済王歴」その原因を求めた

 根拠に乏しい内乱説であり信じがたいが、安閑・宣化朝と欽明は兄弟であるが、母親が異なることや、背後に安閑・宣化は大伴氏が、欽明には蘇我氏がついて政治的対立が生じたのは事実であろう。しかし、紀年問題の間違いを除けば内戦状態を示す考古学的証拠はない。むしろ、安閑・宣化朝と欽明朝は親近性が強いといわれるのである。

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2010年1月22日 (金)

林住期、如何に生きる?再発見

 私のホームページ(http://hihabe.com)は、定年を向かえて人生の林住期を如何に生きるか、をテーマとしました。そこでは、自分の生きがいを見つけて生きることとしています。

 しかし、先日、海原順子氏(診療内科医)の新聞コラム「心のサプリ」に「今しかできないこと」なる文章が載りました。
 そこには人生は、その時、その時しか出来ないことを為すべし、なる旨の文章が書かれていますが、私の目を引いたのは次の部分です。

「年を重ねるにつれて、『自分はまだ、若い頃と同じようにこれが出来る』と誇らしげに語る人が多い。それは結構かもしれないが・・・・」とあり、若くないと出来ないことを追い求めるのは止めにせよ。「年を取ったら、年をとらなくちゃ出来ないことをせよ」とある。

 確かに年をとりながら、若者の真似をして元気ぶっていても、いわば人生若いときのままストップしており、そこから「年寄りへの成長」が出来てないことになる。
 矢張り、「年よりは年寄りの為すべきこと、年寄りに出来ることを自覚して、『年寄りでなくちゃできないこと』にまず取組むことが肝要であると、目が覚める思いをした次第である。

 さて、今私のなすべきことは?を考えてみよう。

 

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2010年1月20日 (水)

古代史の謎57:磐井の反乱

Photo  6世紀前半、半島の同盟国・伽耶諸国救援のため、派兵と協力を求めた大和政権(継体朝)に対し、九州豪族の雄、筑紫の君「磐井」が造反した。これが古代最大の戦争といわれる「磐井の乱」である。

 6世紀初頭の朝鮮半島は戦乱の最中で、高句麗の南下により、新羅、百済は半島南部に支配を広げ、南部の伽耶諸国は滅亡の危機に瀕していた。時の大和朝廷はこれに大きく干渉し、百済とは友好関係を結び、新羅とは敵対関係であった。
 しかし、雄略朝頃からは大和朝廷の半島支配力の低下もあって、継体朝には高句麗に攻められた百済に対し任那の一部を割譲した。それで、任那は朝廷に不満を持ち新羅に接近し、離反する動きを見せた。そこで527年、朝廷は任那を新羅から開放する名目で軍を派遣した

 ところが、新羅から友好支援の要請を受けた磐井軍が、任那支援に向かう朝廷の物部麁鹿火、大伴金村率いる近江毛野軍に反旗を翻し、これに同調した九州有力氏族も加わり、古代最大といわれる反乱戦争となったのである。

 反乱の原因は、九州は朝廷に対し不満が渦巻いていたからだ。大陸に近い九州は独自の優れた文化を持つ先進地域であり、大和朝廷の影響は受けずに発展し、石人石馬などの独特の文化がある。
 又、新羅出兵の負担も不満の原因である。出兵で男がとられ、食料、船などの供給、且商売相手の戦であること、特に新羅の渡来人の多い地で、朝廷よりはるかに強い親近感を持っていた。
 
こんな状況が、九州人が新羅を攻める朝廷に対抗した大きな要素である。

 写真は筑紫君磐井の墳墓とされる「岩戸山古墳」で、長さ125mの九州最大の前方後円墳で、石人、石馬も出土した。

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2010年1月18日 (月)

名前は? 路傍の花

1  先日の厳寒大雪から一転、ここ2、3日は快晴で暖かい日が続いている。天気がよいので、カメラを提げて歩いていると、写真のような花に出くわした。

 先ず上の2枚は同じ種類で紅白の花である。葉の大きさと形はクローバーとそっくりなので、花がつかないときはてっきりクローバーと思っていたら、今日花をつけているのを発見して、「なんだこりゃ?」と思った次第。

2  花の形は朝顔状だが、大きさは径が2センチ前後、高さ3センチ弱の小さな花だ。野生種ではなさそうで、誰かが植えたものと思うが、ご存知の方は名前を教えて下さい。

6  最後のは「柊南天」と思っているが、今時分咲くものかな。花は初めて見るので、間違いないか、ご存知であれば教えて下さい。

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2010年1月16日 (土)

古代史の謎56:継体王朝は大和政権の簒奪者か

Photo  25代武烈天皇には後継者がいなかった。そのため大連の大伴金村が丹波国桑田に仲哀天皇血筋の倭彦王を迎えにいったが、討伐されると勘違いし逃げた。
 そこで朝鮮半島との海路確保のためもあり、近江、若狭、北陸と探し、越前三国の応神天皇5世の孫とされる豪族「男大迹王(オオドノオオキミ)が居ることを知り、一旦は断られたが、説得し王位継承をさせ、継体天皇となった。

 継体近江の息長氏の出自である。息長氏はただの地方豪族ではなく、応神から5世の系譜もはっきりし、息長氏を大王家の末裔とする系譜は記紀以前に遡るということが最近わかってきた。

Photo_2  越前にいた継体天皇は即位後5年、都を山城筒城に遷都。更に12年後弟国に遷都。20年後に磐余玉穂に遷都しようやく大和入りを果たした。
 武烈天皇の死後、各地に動揺が起こり不安定であった。このため、先ず近江、尾張を固め、河内、山背に進出し、着実に地方豪族の支持を得ながら大和に入ったと見られる。
 その背景には継体の后の多くが尾張や近江の子女が多く、越前にあった頃から、この方面に勢力を持っていた。それで、大和と越前の合併政権である「新大和朝廷」を誕生させたと見られる。

 以上の経過からも、継体王朝は応神王朝(河内、ワケ王朝)とは別の新しい系譜を持つ新王朝であり、現天皇家の本当の始祖であるという説があった。
 しかし、2007年3月大阪の「今城塚古墳」が発掘され、継体天皇の陵墓は茶臼山古墳だとされてきたが、現在は今城塚古墳が継体陵であると見られている。この古墳の造り(3段築成)から見る限り、従来の古墳と変わらず、王朝交代説も否定され始めたのである。

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2010年1月15日 (金)

大雪で積雪

Photo  昨日、一昨日と二日に亘っての降雪。福岡では久しぶりの大雪で、しかも平地で5cmの積雪があった。南国福岡では、前が見えぬほど吹雪くことや、平地に積雪するのは近年では珍しいことなのだ。(写真は雪の積もった吾が盆栽)。

 今回は、鹿児島も積雪して日本列島全部が雪に覆われたのだから矢張り珍しいことであろう。
 今冬は暖冬との長期予報で、明日からは暖かくなるとのことだが、これでも矢張り「暖冬」というのかな。

 ハイチでは大地震が発生。大被害が起きている。
 本当に地球全体がおかしくなって来たのであろうか。地球は誕生以来氷河期を何度も経てきているから、寒冷化や温暖化はさほど問題ないのであろうが、人間が自然に逆らって自然を壊している結果のことであれば問題である。

 もう余り「利便」ばかり追いかけたり、神の領域まで入るのは止めにすべき時なのか。

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2010年1月11日 (月)

古代史の謎55:応神王朝最後の武烈は虚像か

Photo  雄略天皇を継いだ清寧天皇には子がなく、雄略の従弟の市辺押磐の御子で、弟が先に即位した顕宗天皇、その後兄が継いで仁賢天皇となる。その御子が26代武烈天皇である。

 この武烈天皇にも御子が無かったが、気性の荒い天皇とされた。日本書紀に依れば若くして天皇とになった武列は、豊かな法令の知識を持って、裁判や処罰をなど日が暮れるまで政治を行い、公正であったとされる

 一方、暴虐な行いがあり、妊婦の腹を裂いて胎児をみたり、爪を剥いだ手で山芋を掘らせたり、木に登らせた人を弓で射落とし笑ったりして常軌を逸していたとされる。又民を労わることはせず、自ずからは美食を口にし、夜毎酒と女に溺れ、奇怪な遊びに明け暮れたという8年の治世の間、暴虐を究める暴君そのものだったとされている。

 しかし、前述のように正しい裁判をおこなったとしたその後は残虐という矛盾がある。又、古事記には残虐記事はない。
 これは
後世になって付け加えられた悪事であり、残虐行為は後の継体天皇の即位を正当化するための虚構だという見方がある。また、武烈天皇そのものが存在しないという説もある
 後継者のいない武烈天皇のときに、この
皇統を断絶させるための理由とするために、仕組まれた虚構であるというわけである。

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2010年1月 9日 (土)

厳寒に縮んだ山茶花

Photo  暮れから正月にかけ、日本列島は寒気団に覆われ、震え上がった。その寒気団が後退し、ようやく平年並みの気温となり、久しぶりに晴れ上がったので、歩いてみた。

 流石に冬枯れの時期で、せめて紅く咲き誇った山茶花でも見ようと思って出かけたが、先日来の寒さで暮れに咲いていた山茶花は萎れたり、枯れて見苦しくなり、その後咲き始めた花も小さく色も悪い。或いは花の数が極端に少ない。
 こんなに気温が乱高下すれば、樹木も戸惑っているであろう。

 乱高下しているのは、気温だけではない。民主党への期待も、定まらぬ目先の見通しに、国民の気持ちも揺らいでいる。
 その結果もあり、経済見通しも揺らいでいる。株価も新財務大臣の発言で揺らぎ(円安の影響もあってか日経平均はやや上がってきたが・・・・・)、就職戦線も厳しい状況だ。

 現状からいかに脱出しようとするのか、政府も評論家も、学者も、採るべき方策、進むべき道を指し示すのが貴方の仕事でないのか。
 今が苦しくとも、先が明るければ、みんな元気なれる。その役目をになっている方々の奮起を願うところである。

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2010年1月 4日 (月)

古代史の謎54:大伴、物部氏の台頭

Photo  奈良盆地の南部「葛城」の地にあった「葛城のクニ」の支配者、豪族の葛城氏は応神から履中までの3代に亘り皇妃を葛城から出して、大王の外戚となり5世紀には大きな権力を揮うに至った。同様に大和の地にあって応神朝を支えた平群氏も王位を狙うほどの勢力であった。

 しかし、河内王権(仁徳以降の王権)も雄略朝頃には、第2波の渡来人が先進技術をもたらし、倭王権はこれらの渡来人を政治機構に組み込んで新しい機構である伴・部制に再編されていった。
 その中で雄略の兄安康が即位後も王位継承争いを起こす。その安康を殺した眉輪王が追って、隠れ家共に焼き殺す。こうして葛城一族もあっけなく滅ぼされ、葛城系の皇子たちも滅ぼして、雄略が大王についた

Photo_3  こうして雄略朝では、元々豪族ではなかったが、新しい政治機構ー伴・部制に再編された中で実力を蓄え軍事的機能集団に成長した大伴、物部両氏族が台頭し、王権の中枢を占めるようになるのである。図は大伴、物部両氏の系譜である。

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2010年1月 2日 (土)

今年は良くなれ!

100306   新年となりました。
今年もこのブログご愛読のほど願いあげます。

 今年は私の干支の虎ですが、年男といわれる歳に何かいい事があったためしはない。だから今年も私にとって、特にいい事がありはしないだろうと、はなから期待はしてない。

 しかし、私個人のことはどうでもいいから、せめて、世の中の経済状況がも少しよくなって貰いたい。失業者が増えている。卒業生の就職率が悪い。一般サラリーマンのボーナスが減り、生活が苦しくなっている。
 経済指標は今が底だ底だと言うが、上向いているという気配も余り実感できない。こんな状況があと1年も続けば大変なことになるのではないか。

 矢張り、民主党はもっと腹をくくって、景気回復に全力を尽くして欲しい。この不況を如何に切り抜けるかが、民主党が政権政党として、国民に信頼されるかどうかの分かれ道になることは間違いない。

 又野党も足を引っ張るばかりでなく、与野党協力して日本を立ち直らせるときなのだ。それが出来るかどうかで、世界からの日本への評価が定まるだろう。

 今年はみんな虎に負けずに突っ走れ!
 

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