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2009年12月

2009年12月30日 (水)

古代史の謎53:渡来技術が社会変革

Photo  4世紀の応神王朝から5世紀初頭に掛けて、多くの渡来人や亡命者によって、織物、焼き物、塩業、製鉄のほか、漢字による文書など新技術が導入された。それらは倭国内の爆発的な技術革新を起こし、社会変化を遂げさせた。明治維新に匹敵する技術革新の時代であったとも言われる。
 又この新文明は朝廷だけでなく地方に伝播されて、地方の生活向上をもたらした。地方に小豪族が生まれ、小型墳墓が数多く作られた由縁でもある。

 主な渡来氏族は西文首(かわちのふみのおびと)一族。河内の古市を根拠に活躍し、「朝廷の史」として文書作成を専門とし、この一族により漢字の使用が一般化したといわれる。
Photo_2  又、倭漢直(やまとのあやのあたえ)一族陶部、鞍部、画部、錦織などの手工芸技術者を連れて来て、奈良高市郡檜熊を本拠地として手工芸の大元締めとなった。
 更に養蚕、機織の外来技術を品部として管理した秦一族は、京都の太秦を本拠地とし、周辺に養蚕、機織の技術を広めたのである。

 この時代、彼ら及びその末裔の果たした役割は、日本の社会を新しい段階に革新したことである。渡来人或いは帰化人が日本に同化したとは言えず、日本人が彼らに同化したのであり、端的に言えば日本人の祖先であるとさえ言っている人も居る。

 

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2009年12月28日 (月)

「三国志」曹操の墓発見

 今日の毎日新聞のトップ記事である。
Photo  中国河南省文物局は同省安陽県安豊郷西高穴村で発掘された後漢時代の墓が、三国志の英雄で魏の始祖、曹操(155~220年)の墓「高陵」と確認されたと発表した。矛や枕などの副葬品に「魏王武」の銘文があったことを最大の根拠とし、出土した男性の遺骨が60歳前後と推定され、歴史書に記載された享年と符合するという。

 又、墓は前室と後室、四つの側室がある構造で、全体の面積は740m2。墓室は20m四方で、墓道は全長40m、幅10m。最も深いところは地表から15m。金銀銅などで作られた器や鉄剣など250点以上の副葬品も見つかった。 と報じている。

 私は若い頃、吉川英治の「三国志」を読み、劉備を主に描いたもので、曹操は敵役とされているので、「にっくき悪い奴」との印象が強いが、「魏・呉・蜀」が鼎立する中、魏王朝をスタートさせた勇将なのである。
 遠い国の昔の物語ではあるが、日本には未だ邪馬台国が出現する前の倭国大乱の時であり、後漢に朝貢を行なっていた頃のことなのだ。
 中国でも「今回の発見で千古の謎が解き明かされる」と言う位だから、やはり大昔の話なのであろう。今後の調査から、いろんな事が解明されるのが楽しみである。

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2009年12月26日 (土)

古代史の謎52:吉備の反乱

 雄略天皇の御世、未だ天皇に対抗しうる強大な地方豪族が居た。
 地方勢力ながら后を輩出した「日向」。東日本に勢力を築いた上野国、下野国の「毛野勢力」。朝鮮と交流が深く独自の技術文化を持つ「出雲」。古来より通商の要衝にあり、強大な勢力を維持してきた「吉備」4大勢力である。
Photo  特に吉備の豪族の勢力の強さは「造山古墳」に現れている。岡山市にあるこの古墳は全長350mあり、国内4位の大きさであり、強大な勢力を示す古墳群がある。

 日向、毛野、出雲は大和朝廷との融和策により従属したが、吉備は三度の反乱の末、やっと服従した
 1回目は、密かに朝廷に対し敵意を抱いていることが判明し、怒った天皇は主犯の吉備下道臣前津屋を滅ぼしてしまった。
 2回目は、雄略天皇が吉備上道臣田狭の妻、稚媛(ワカヒメ)を奪ったことに対し、百済と任那を巻き込んで朝廷に反旗を翻した。しかし計画は失敗した。
 3回目は、雄略没後、妻の稚媛が皇子に皇位簒奪をそそのかしたが、大伴室屋大連によって皇子と稚媛は殺害され失敗した。

Photo_2  これらの反乱伝承は独立性が高かった吉備も鎮圧され徐々に力を失ったことを示す。
 雄略朝における葛城と吉備両氏の没落は次の3点で大きな意味を持った。
1.当然のことながら二大勢力が滅び、従来以上の強力な大王権力を得た。
2.従来の土豪型氏族の没落により、大伴・物部氏や蘇我氏などの「部」を重要な経済基盤とする氏族が王権の中枢を占めた
3.吉備の没落で大和に比肩する地方豪族が消え、筑紫の磐井の乱鎮圧で、大和地方の優位を決定付け、列島社会は新しい段階に入った。

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2009年12月24日 (木)

鳩山さんは「覚悟」をもっているか

 鳩山政権が発足して今日は百日目だそうだ。新政権発足後100日位は温かい目で見守ってやろうと言うのが欧米先進国では慣例と聞くが、その後は容赦され無くても仕方ないという。

 今日の新聞は100日経過ということで、鳩山政権に対するというより、鳩山さんに対して色んな批判をしている。
 私自身は心情的に鳩山さんが立派に首相としての責務を果たし、日本の将来に向けた舵取りをしてくれることを期待している。

 しかし、残念ながら、今日までの諸問題に対する首相としての対応は余りにもぶれたり、問題先送りすることが多く、毅然として自分が「この国を作り直す」という気概が見えない。

 たまたま「明治維新後の日本」を描く「坂の上の雲」が放映されているが、今日本はまさに、「第二の維新の時」と言っていい筈だ。ここは毅然として、自分の所信を表に出して、世論を導くべきではないのか。

 党内の主導権争いや、自信の保身などを考えるときではないであろう。身を呈して、日本国のあるべき方向を示し、国民をその方向に向けると共に、自身は「その礎とならん」覚悟で事に当たるべきだ。普天間問題の優柔不断な対応をみれば、国民はがっかりしているのではないか。

 鳩山さん、勇気を持って頑張れ!

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2009年12月22日 (火)

古代史の謎51:初の「治天下大王」雄略天皇

Photo  昭和53年(1978)、奈良・元興寺文化財研究所が、埼玉・行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の保存処理をしていて、115文字の金象嵌の銘文を発見した。

 この銘文には前段で、この刀を作った「オワケ臣」が稲荷山古墳に葬られており、代々親衛隊長として王権に奉仕したことが記され、後段に「ワカタケル大王(雄略天皇)」がシキの宮で天下を治めたとき、オワケ臣が「佐治」(大王を補佐)した事が記されている。
 その大王の名が写真の「獲加多支歯(ワカタケル)大王」と明記されている。

 一方明治6年に熊本県菊水町の江田船山古墳から出土した鉄剣銘に「治天下獲□□歯大王」(□は不明文字。又獲、歯共に少し異なる文字だが、パソコンにないので、同文字を使用)があり、この大王を佐治した人の墳墓であり、その事績が入っている。この大王に相当するのが、これも稲荷山古墳のワカタケルと同一であろうとするのが通説になった

 このことから、年号「辛亥」から471年のことと見られ、倭王武が宋に朝貢したのが478年であることから、上記両方の剣銘のワカタケルが倭王武即ち雄略天皇であり、ほぼ日本全国を支配下に治めていた証拠をもつ初の大王とされているのである。

【ご挨拶】当ブログ1週間のお休みをしましたが、本日より復帰。従前同様ご愛読を願います。

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2009年12月15日 (火)

不可解事件の犯人

 昨日、いつもの医院に行った時のこと。
 待合室に入り一旦長椅子に腰を下ろしたが、暑いので上のコートを脱ごうと立ち上がり、椅子を見ると、何と!背もたれに牛乳状の白い液がぶっ掛けたように付着しているではないか。吃驚してコート見ると背中にも同様に白い液が振り掛けられたように付着している!

 直ぐ看護婦さんに連絡し、待合室のティッシュで、椅子やコートを拭取った。が付着したものが何なのか、何処で付いたのかさっぱり判らない。
 念のため、車に戻りシートの背もたれなど点検するも全然異常なし。車から降りて、受付をし、椅子に座るまでのどこかに白液の滴って入るところがないか見るも、何もない。
 周りの患者さんや看護婦さんたちも不思議がっていたが、訳が判らぬまま、雑巾で汚れを拭った看護婦さんの「汚れは落ちたのでもういいですよ」の一声で、原因不明のまま終わりとなった。

 診察が終わり帰りがけに、朝、駐車時に医院名を掲げたポールと車の間が狭いので、背中をポールに当てながら横退りに抜けたことを思い出し、念のため手でポールを触ってみた。
 すると、何と手に雨に濡れた白い塗料が劣化し乳濁状となったのが付着するではないか! 犯人はこれだったのである。

 世の中、全く予想もしない出来事や、考えもしない状況が出現することがあるものだ。しかし、何事も必ず原因があって、結果が出来るものだと改めて心した次第である。

【お知らせ】
 都合により、当ブログは一週間ほどお休みをいただきます。再開後また御愛読いただきますようお願いします。

 

 

 

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2009年12月13日 (日)

古代史の謎50:巨大豪族居館

Photo  群馬県榛名山麗の遺跡群には5世紀後半のムラのみならず、この地域の首長の居館と古墳がセットで存在する。これは榛名山が6世紀に2度の大噴火を起こし、山麗のムラや水田、住居、祭祀跡など全てが火山灰に埋もれて、パックされていた。これが新潟新幹線工事の発掘調査で発見され、三つ寺I遺跡と名づけられた。

Photo_2  この遺跡は図の通り、南部に大型の建物(主殿)、井戸、祭祀遺構などの政治の区画がある。北側には竪穴住居や工房、倉庫群が並んでいた。
 ここが政治、経済、宗教活動の中心地であり、強大な支配者が君臨したと見られる。

Photo_3  三つ寺遺跡より北西に約1kmのところに保渡田古墳群がある。三つの前方後円墳があり、二子山古墳、八幡古墳、薬師寺古墳の順で築かれたものである。これらは、墳丘長100m前後で、二重の濠を巡らし、多数の人物・動物埴輪を立て並べていた。
 三つ寺古墳に近接し、存続期間もほぼ一致し、居館の主が葬られた古墳群と考えられる。この首長家は五世紀半ばに台頭した勢力だが、六世紀前半には没落した。(榛名山噴火による埋没の影響?)。

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2009年12月11日 (金)

旅:丹波路

 所要のため。1泊2日で故郷丹波に帰省してきた。
Photo  丹波は高地でよく冷え込むので、霧が深い。デカンショ節に「丹波篠山山奥なれど、霧の降るときゃ海の底」の歌詞があるとおり、晩秋の冷え込みが強い朝、濃い霧に包まれてしまう。今年は暖冬のせいか、12月なのに秋のように霧が下りていた。写真は朝八時を過ぎた時間帯のものだが、山の紅葉も全然見えない。
 この霧が下りることが「丹波黒」と称される黒大豆を産する原動力とか。他に「きり芋」と称する丸い「山の芋の一種」の産地であり、なぜか鹿児島の「かるかん饅頭」に欠かせない原料でもある。

Photo_2  尚、なぜかわからぬが、今年の南天はどの木も、葡萄のように実を一杯つけていて珍しいので、写真に納めた。

 聞けば、田舎の過疎化は進む一方で、丹波も「村」が「市」にはなったけれど、小学校の数は昔の四分の一位に減り、遠距離通学で車での送り迎えだそうだ。
 日本の地方行政は間違っていないだろうか。本当の国づくりとはどうすることだろうかと考え込んでしまった旅だった。

 話は変わるが、大阪に行くたび不思議でならないのが、どうして関西はエスカレーターで、右側に立つのかということ。どうでもいい話ながら、福岡から行くと列車を下りた途端、エスカレーターはつい左によっていて、急いでいる人に睨まれたり、小突かれたりして、こちらも不愉快になる。
 やはり大阪は関東に対する反骨精神が底にあるのか、それとも何か生活上の習慣によるものなのだろうか。私にとってはどうにも気になる不思議の一つだ。(関東関西での違いは昔の通貨が金と銀、電気のサイクルが50Hzと60Hzがあるがこれはチャンと理由がある)。知っている人是非教えて下さい。
 

 

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2009年12月 7日 (月)

古代史の謎49:剣崎長瀞西遺跡

023  剣崎長瀞西遺跡は群馬・高崎市の碓井川と烏川に南北を挟まれた八幡台地の北端にあり、西側に八幡古墳群(5世紀後半の群集墳)があり、東側には同時代の集落があり、円墳9基以上、方墳3基、積石塚5基がある。

 注目されるのは出土物である。方墳から朝鮮製の金製耳飾や朝鮮系土器のほか、円墳との間で、朝鮮系馬具を装着したままの馬が埋葬された土抗が見つかった。群馬では最も古い発見例だという。
 群馬の名古くから馬が飼育されたことから来ているが、組織的な馬の生産と供給をしたと見られ、畿内と信州を経て東山道で移送されたと見られる。

 榛名山の麓の下芝谷ツ古墳、下五反田古墳でも、同様の出土物があり、八幡台地を中心に朝鮮系渡来人の一大キャンプ場だったといわれる。
 下芝谷ツ古墳の出土品である写真の金銅製飾履は朝鮮半島で流行したものだ。日本での発見は15例ほどといわれ、この飾履が最古級装飾性に富んでいるそうだ

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2009年12月 5日 (土)

荒神信仰

Photo  先日ウオーキングの足を伸ばし、小高い丘の上に「古野三宝荒神宮」なる小さな神社を見つけた。
 荒神さんといえば、子供の頃祖母に連れられよくお参りに行ったので、懐かしく思い覗いてみた。「火の神」「竃の神」とは教わり、生活上身近な神様とは知っていた。が、案内板から「荒神」をすこし紹介しよう。

 荒神は大きく分けて①屋内に祀られる火の神としての荒神 ②屋外に祀られる土地の神としての荒神があり、また農耕神としても信仰され特に牛馬の守護神ともされる。

 屋内の荒神火の神・火伏せの神・竃の神としての性格を持つ。これが習合(他教と混じる)神の三宝荒神に結びついている。三宝荒神とは仏・法・僧の三宝を守る仏法の守護神である。
 経典に本拠はなく、両物(仏・神混合)や陰陽道が創り上げたものとされ、民間では広く信仰されている。祭神は古事記などに出て来る火の神々が祀られている。

 一方屋外の荒神屋敷神・同族神・部落神としての性格を持ち、この信仰は中国地方・瀬戸内・北九州など西日本を中心に広く見られる。

 屋内外何れにしても荒々しく、祟りやすい神とされ、古事記、日本書紀の「荒神」「荒振神」に結びつけられる。荒神がこうした多様な性格付けされるのは中世以降の陰陽師や祈祷師、修験・山伏による民間への影響によるものと考えられる。
 荒神社の数は広島県が突出し、ついで兵庫県・岡山県に集中している。中国・四国を中心に西日本に多く分布しているという。 

 

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2009年12月 3日 (木)

古代史の謎48:最大古墳大仙陵

Photo  大阪・堺市にある大仙陵(仁徳天皇陵)は日本最大の古墳であり、墓域面積はエジプトのピラミッド、秦の始皇帝陵を上回る世界最大のもである。
 長さ480m、後円丘の径245m、前方部300m、高さ35mであり、堺沖の船上からは緑の台地上に遠望できたという。

 仁徳天皇陵は応神天皇の皇子で、応神王朝の2代目である。徐々に勢力を増してきた大和朝廷が、国内各有力氏族に対し、力と権威を誇示し、朝廷の勢力下に治めようとした最終段階の最大プロジェクトであったろう。

 仁徳天皇陵の治世は、不作で、人民が困窮したときは賦役を3年間免除したり、灌漑用水源としての和邇池(奈良)、依網池(大阪)を堀り、横野堤(大阪)を築いたという。また、洪水対策として、水路の整備や防波堤を築くなどの治山治水をもよく行なった。特に10kmに及ぶ茨田の築堤工事は大掛かりで、農地開拓に大きく寄与したそうである。

 このような結果、強力な王権の誕生、即ち朝廷による国内統一は進められ、天皇の権威を誇示する必要もなくなり、これ以降の有力氏族のも含めて、墳墓の規模は縮小して行くのである。

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