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2009年11月

2009年11月30日 (月)

中世 明、朝鮮の日本認識

 昨夜、毎回見ているNHKのETV番組「日本と朝鮮半島2000年」の第8回「秀吉の朝鮮侵略」を見た。
Photo  1590年、全国統一を終えた秀吉が、1592年15万人の軍を朝鮮半島に侵攻させた「文禄の役」(壬辰倭乱)と、明が介入してのその講和交渉。交渉決裂による第2次侵攻「慶長の役」(丁酉再乱)の開始と日本軍の苦闘、秀吉死亡による撤退。その結果明の衰退と清国の勃興など、1時間半に亘り、日韓両面からの解説を交え興味深く見た。

 そこで、内容とは別に私にとっては驚きのことがあった。
 写真を見て欲しい。上の写真明及び朝鮮側が持っていた地図である。この中の日本は図のように右下に小さく描かれている島である。
 当時の日本に対する認識がこのように非常に無関心であり、弥生時代と変わらぬ極東の小さな島としか認識されておらず、朝鮮よりもはるかに小さいと認識されていたのである。
2  従って、文禄の役の講和交渉において、中国が最大限譲って、秀吉を日本国王に任ずるという「柵封」をもって臨んできたのだ。当然秀吉の認識とは大きくかけ離れていることを、この地図はよく表わしている。

 一方日本が作成した当時の地図は下図のとおりである。これはそんなにおかしい物ではない。
 古代の交易による物流や人の交流も盛んであった頃の事から見れば、元寇の役があったにもかかわらず、中世にはどうしてそんなに日本への関心が薄らいでいたのであろうか。中国、朝鮮共に王朝の交代が盛んで、民族的な交代もあったせいなのか、不思議な感を抱いた。

 

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2009年11月27日 (金)

古代史の謎47:謎の巣山古墳

Photo_3   巣山古墳は奈良盆地の西南部、応神天皇の外戚に当たる葛城一族の馬見古墳群の中にあり、築山古墳と並んで、最大級の古墳である(全長220m、後円部径130m、前方部幅112m)。

 この古墳は普通の前方後円墳とは異なり、左右のくびれ部に方形の作り出しがあり、前方部には出島(12×16m)が水濠に突出しており、水鳥の埴輪が並んでいたらしい(写真)。又、この出島の西にはひょうたん型の島が付属している。この古墳全体は大きく鳥を型取っているとも見えるという。

006  宮内庁に保管されている盗掘された遺物は、呪術に用いられたものばかりだという弥生期以来の古いものばかりだそうだ。
 葛城一族が力を持ち始めた頃の古墳であるが、これらの類を見ない形や埋葬品など、現在のところ何も解明されておらず、謎に満ちている。今後の調査研究に待たれるところである。

 尚、5世紀に勢力を誇った葛城一族ではあるが、雄略天皇により滅ぼされ滅亡した

 

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2009年11月25日 (水)

腸内活性化で免疫力向上

 昨日の毎日新聞に「免疫力を高め感染症予防ー乳酸菌ー」なる記事が載った。
ざっと読むと「乳酸菌が造るEPS(多糖体)が免疫機能を活性化する」ことがヘルシーリポートとして書かれていた。

 興味があったので、インターネットでも調べてみた。その要点を記すると、
Photo  先ず、年齢によりヒトの免疫力は図の通り70歳を越えると10%を切ってしまう。病原菌や各種ストレスに対する免疫力がこんなに低下するのかと愕然とした。

 そこで対策はと見ると、乳酸菌が身体に良いというので、毎日ヨーグルトを食べているが、実は口から摂取しても、強力な胃酸でほとんど分解され、腸に達するのはほんの僅かだそうだ。
 役に立つのは腸内で生産され存在している乳酸菌、ビフィズス菌、酵母菌等ある。

 そして免疫は腸で造られるのである。口~胃~腸は体内にあるが、外部につながっておるため、外部から入る食物などと一緒に侵入する悪玉菌等に対する免疫機構が備わっている
 腸の襞に張り巡らされた「リンパ細胞」により、腸は人体最大の免疫器官を形成しているのである。そして、各種善玉腸内細菌が、この免疫力を高めるのに深く関わっているのだ。

 又腸は第2の脳であるともいわれる。全ての臓器や脳などの重要組織は腸から発生して出来たのであり、腸には神経細胞が張り巡らされ、その数は脳には及ばぬが、脊髄に匹敵するといわれる。腸は肝臓や膵臓の司令塔でもあり、脳や脊髄とは独立して働き、脳死でも内臓は働くのである。
 特に最近、脳に存在するセロトニンが腸にも存在し、体内の95%が腸で造られる事が判った。
 腸にも感情があり、喜怒哀楽がある。ヒトが生きるうえでの「情動」の発信源ともいわれる。

 以上から、腸内の善玉菌を増やし、腸内環境を整え、改善し、免疫力を高め、腸年齢を若返らせる為、食物繊維を摂り、ウオーキングなどの適度な運動により、腸の働きを高め排便を促すことが必要。又、ビタミンA、C、Eや亜鉛の摂取も大切。と言う事である。

 

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2009年11月23日 (月)

古代史の謎46:倭の五王

 4世紀の中国、朝鮮半島共に国内が分裂抗争を繰り返し、中国への朝貢も行なわれなかった。このため、当時の日本の史実を伝えるものが無く、闇の世紀と言われる。
 しかし4世紀末から5世紀にかけ、朝鮮半島からの中国への朝貢も復活し、倭からも遅れじと、宋朝へ朝貢を開始した。その結果が宋書の中にのこされ、当時の実在した倭王の名前がある。

 413年、東晋に朝貢し万物を献じたとあり、安帝のとき、倭王「讃」ありと梁書にある。
 421年、宋の文帝に倭王讃が朝貢し、除授を給う(宋書)とある。
 438年、倭王讃死し、弟のが立ち遣使貢献し、珍は安東将軍倭国王とす(宋書)。
 443年、倭国王同じく安東将軍倭国王に叙せらる。
 462年、済が死し、世子を同じく安東将軍倭国王とす。
 478年、興が死し、弟が立ち、479年に倭王武を鎮東大将軍とす(南斉書)。
 502年、倭王武を征東大将軍とす(梁書)。とある。

Photo   これらの倭王が誰なのか。はっきりしているのは応神天皇以降の天皇で、左図の通り、讃王履中、仁徳、応神天皇の内の誰か。反正、仁徳天皇のどちらか。済王允恭天皇興王安康天皇武王雄略天皇 と言われている。

Photo_4   これらの五王の授かった爵位「安東将軍」の格付けは高句麗、百済についで三番目のものであり、倭は中国から見れば、左程重要視されていなかったことが判る。唯、倭国内における地位を誇示する上では大いに必要なものであったろうとすることは推定できる。

 尚、倭王武は勇猛果敢であったことや、地方平定に尽くしたことなど、又、倭王武から王を除けば倭武(ヤマトタケル)となることから、雄略天皇とヤマトタケルは同一人物だとする説もある。
 

 

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2009年11月21日 (土)

星の誕生

 この宇宙では、星が次々生まれて、又一方次々消えていっているそうだ。
Photo  写真は昨日の毎日新聞に載った双子の「連星」である。これは総合研究大学院大学の国立天文台、すばる天文台(米ハワイ州)で総研大の真山聡准教授らの研究チームが、地球から520光年離れた「へびつかい座SR24」を観察して、初めて撮影に成功したものだそうだ。

 下図の説明図の通り、太陽とほぼ同じ質量(重さ)の主星と、それより暗い伴星が、やがて星になる円盤状の雲を従え、そこから星の材料となるガスちりを盛んに吸い上げているという。連星として育ち、やがて夫々の惑星を創るのだそうだ。

Photo_2  星はどのようにして誕生するか、インターネットで見ると、「宇宙に漂うガス雲(水素が主)の、特に濃い部分(分子雲という)が集まり、だんだん暑くなる。ガスは回転しながら集まり円盤を創る。そして円盤の中心で原始星と呼ばれる星の赤ちゃんが出来る
 原始星には円盤からガスが落ちて行き、徐々に温度を上げてゆく。原始星の中心の温度が十分に高く(約1000万度)となると太陽と同じく輝きだす。(太陽は46億年前に誕生)」とあります。 この説明で判りますか。宇宙空間のガス濃度は非常に薄く、上記現象が進むのも大変な時間が掛かってのことでしょうから、私どもの常識じゃ判らないのが普通でしょうね。

 私にはこの星の誕生と同じくらいにわからないのが、身近ではありますが「化石」の出来る過程も不思議でなりません。端的に言って、どうして植物や動物が「石」になるのかが一向に理解出来ないわけです。
 逆に、石が風化して土になるのはよく判ります。人間も動植物も皆土に帰る。その逆、どうして有機体が石になるの?

 星の誕生は何となくなっとくしますが、身近な化石の出来るワケをどなたか判りやすく説明してください。

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2009年11月19日 (木)

古代史の謎45:応神天皇こそ初代天皇?

Photo  神功皇后が新羅征伐から帰陣して、筑紫で出産したのが応神天皇であるとする神話は、それ以前の王朝とは異なり、応神が渡来系の部族の王であることを暗示しているという。
 武内宿禰と共に近江から若狭、敦賀を経由し、仮宮をを築いて過ごした後、大和入りしたのも、これらの地点が渡来系部族の拠点であり、大和包囲網陣形を築いてから大和入りしたのである。
図は王権と共に移動した墳墓:佐紀古墳群の五社神古墳(神功皇后陵)⇒古市古墳群の誉田御廟山(応神天皇陵)⇒百舌古墳群の大仙陵(仁徳天皇陵)と移動した)

 又、応神天皇有力氏族を朝鮮から連れてきた。新羅征伐に登場する将軍、襲津彦以来の豪族、葛城一族。又大和入りした時、香坂、忍熊両皇子(崇神系)を倒した和邇一族の祖、建振熊命などである。
 これら有力氏族を引き連れて、崇神王朝を倒し、大和を征服するや、河内に進出し、河内王朝を打ち立てたというのだ。そして巨大な応神陵、仁徳陵(大仙陵)をつくったが、又、広大な水田開発や貯水池造成にも取組んだ。

 このように、王朝交代があったことを裏付ける根拠の一つに名前がある。崇神王朝は崇神天皇の御間城入彦(ミマキイリヒコ)、垂仁天皇の活目入彦(イクメイリヒコ)のように「入」が付くのに対し、河内王朝は、応神天皇は誉田別(ホンダワケ)、履中天皇は去来穂別(イザホワケ)、反正天皇は瑞歯別(ミズハワケ)など「別」が付くのである。

 尚、崇神王朝は記紀神話と史実との合致の点では余り明確でないが、応神天皇の事績あたりからは神話との整合性も多く、本当の「初代天皇」に相当するのは応神天皇とする説が有力である。
 又、応神と仁徳は同一人物だとする説もある。それは、応神の治世に老朽化した官船を、塩を焼くのに使った記録があるが、同じ記録が古事記では仁徳天皇の部分にある。他にも応神天皇の后も仁徳天皇が愛した「クロヒメ」もともに吉備出身であり、故郷に帰ってしまうが、応神天皇が淡路まで后に合いに行く逸話もそっくりなのである。

 

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2009年11月17日 (火)

秋を歩く:秋の花

 秋の果実、街路樹、紅葉と見て歩いたので、最後に秋の花を見るべく、少し田舎の方へ足を伸ばした。住宅街は勿論、田舎の民家でも、近頃は春に劣らず秋でも、園芸用の栽培種の花が色とりどり所狭しと庭を飾っている。
 それを避け、田舎の道辺や昔からの秋咲の花を求めて歩いたら、これが案外少ないのに驚いた。

Photo  野路菊、所謂「野菊」といわれる菊である。これは流石に田舎の道端でも野生していた。日本固有の種だそうだが、「ひめじしおおしお」(別名さつまのじ菊)と謂うらしい。
 しかし、近年は園芸用に改良品種が出回り、色も白、赤、オレンジ、紫系など種々あり、庭植えされている。中国でも人気がある花だとか。

Photo_2  石蕗(つわぶき)。これこそ何処にでもあり、山裾の日陰などに咲いているが、一回り小さく、花も貧弱である。これは民家の門際に植えられ、手入れされているので立派に成長したものである。
 若い葉柄は食用になる。葉は腫物・湿疹の薬用に使える。山蕗とも謂う

Photo_3  ブーゲンビレア。これの園芸種はいろんな色があり、鉢植えで売られていて、花も大きい。しかし奄美、沖縄では冬でも咲いているが、こちらでは温室でないと無理である。
 写真のこの種は野生種で、ある程度の寒さには強いのか、九州では庭植えしている家が多く、今花盛りである。勿論奄美、沖縄では山野何処でも咲いている種である。

Photo_4  苺の木と称する。これは野生種でも、日本種でもない。ただ、花と実が一緒に付いており、珍しいので掲載した。
 本来「strawberry tree」(正式にはアービンタンス)という木であるから、直訳して「苺の木」としたものであろう。実は決して苺には似てないが、花と青い実と熟した赤い実が一緒についているのが珍しいもので、多分最近庭木として入って来たものではないだろうか。

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2009年11月15日 (日)

古代史の謎44:広開土王碑の真実

 4世紀末から5世紀にかけて、倭は朝鮮半島南部の諸国と物的、文化的交流が深かったことは、同盟国であった百済の歴史書「百済本記」にも記載されているが、更に倭軍が朝鮮半島北部まで侵攻したことを示す物的証拠がある。それが「広開土王碑(好太王碑」である。

Photo  399年に高句麗に服従していた百済はこれを裏切り、倭軍と共に高句麗連合国の新羅に侵攻した。そこで、高句麗の好太王は新羅に度々侵攻した倭を真の敵とし、5万もの兵を新羅に送り救援した
 この時、新羅は侵攻を抑えるために倭に人質を送り込んだ。これを「神功記」は倭が新羅を支配下に置いたが如く書いているが、あくまで対立関係に有ったのが真実である。それを伝えるのが好太王碑で、「謎の4世紀」である倭の半島での動向を記した貴重な資料なのだ。

 広開土王碑は中国吉林省、鴨緑江北岸にある高句麗の旧都国内城に聳え立つ6mもの石碑である。全文1800文字からなる碑文の内、注目されたのが「辛卯年条」の一節だ。それは「しかるに倭、辛卯の年(391)を以って来り、海を渡りて百残(百済)・□□・新羅を破り、以って臣民と為す」と読める条である。

Photo_2  この部分のみを昭和の日本軍が取上げ強調してきたが、最近の各国共通の認識としては、全文を読み通せば
元々百残・新羅は高句麗の属民で朝貢してきた。ところが辛卯年以来、倭がやって来て、百済、新羅を臣民としたそこで広開土王が水群を率いて、百済を討伐した。と書いてあり、その後に広開土王の功績の記述がある戦記なのである。

 尚、この半島出兵は倭国が半島支配を狙ったものではなく、当時交流の有った半島南部の諸国からの要請に応えたもので、むしろ先進地域の知識人、技術者との交流や鉄その他の先進文化の掌握などが、当時日本列島支配に向かっていた倭王権の狙いだったと言われる。

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2009年11月13日 (金)

秋を歩く:紅葉

 晴れ上がり、紅葉が青空とコントラストをなして美しいので、是まで行った事が無い初めての山際の道を歩いてみた。

Photo  楓であろう。池のそばの小さな公園に数本植えられ、今が見頃と思える色づきで、きれいである。この公園、近所の人のゲートボールに使われていたが、最近はグランドゴルフばかりやっている。狭そうだがゲートボールは廃れたようである。

Photo_2  この木の名前がわからないが、黄色く色づいた枝を空高く張っていて美しい。公園や公共広場に多いところを見れば、市が植えつけたものであろう。

Photo_6   もみじである。この椛(もみじ)は大きく育っていて、きれいに紅葉していた。カメラ位置が旨く全容をを捉えられないのが残念であるが、立派なものだ。遠くまで歩いた甲斐があった。

Photo_5  ようやく、全体的に色づき始めた場所に出くわした。山裾に少し入りこんでいる所なので、突然奥から人が出てきて驚いたが、私と同じようにカメラを持って散策しているようであったので、安心した次第。
 あと、1週間もすればきれいに紅葉するであろうと、期待して引き返した。

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2009年11月11日 (水)

古代史の謎43:百済との同盟

 中国は三国時代のあとの晋帝國が316年滅亡。江南に東晋王朝が、江北は五胡(十六国)が分立する戦国時代となる。一方半島も北部の強大国、高句麗が半島に進出し、西南部は百済に、東部は新羅に統一され新しい時代となった。

 但し、南部は弁韓12国が分立したままであったが、倭国の北部九州は部族的にも文化的にも繋がりが深く、又大和政権もこの繋がりから、新たに国家建設した百済とも同盟した。倭軍は367年新羅討伐軍を起こし、任那周辺をも平定した

Photo_2  百済の肖古王も高句麗に侵入し、首都平壌を攻めた。
この戦での大勝利の祝いとして、肖古王が大和朝廷に奉献したのが「七枝刀」と「七子鏡」その他の重宝である。
 石上(イソノカミ)神社(奈良・天理市)の宝刀がそれであると言われ、その刀の銘「泰和四年(369年)によく鍛えた鉄で、七枝刀を作った。百済王の世子が倭王のためにわざわざ作ったものである。後生まで伝え示されたい」と刻まれている。書紀の「神功記52年条」の記述とも合致している。

 尚、行方不明となっている「七子鏡」は、明治初期、仁徳天皇陵から出土したといわれるボストン美術館が所蔵する鏡がそうではないかという説が出ている。

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2009年11月 9日 (月)

秋を歩く:街路樹の紅葉

 昨日は足を伸ばして郊外を歩いた。田舎道でも道路整備が行き届き、街路樹が植えられている。車で通るとき見かける銀杏並木まで行ってみた。

Photo  この銀杏は近年植えられたもので、木が若く葉も茂ってないが、1km近い銀杏並木を形成している。今は漸く色付き始めたといった感じで、今年は特に暖冬のせいか紅葉が遅いようだ。
 やはり色づいた銀杏葉が舞い落ち、道路を黄色く覆っている状態の頃が一番いい。も少し先に期待しよう。

 銀杏(公孫樹ともいう)は千年ほど前、仏経と共に中国より伝来。銀杏葉は薬効があり、茶葉として煎じたり、エキス錠で摂取する。海外では医薬品として扱われるが、日本では健康食品である。動脈硬化予防や冷え性、肩こり、眼精疲労に有効。特に末梢循環障害改善効果があり認知症も改善。但し副作用も報告されているので過剰摂取は控えること。
 特異なのは銀杏は雌雄異株で、花粉が風に運ばれ受粉。花粉から鞭毛を持った精虫ができ、胚芽の核と受精することを東大の平瀬五郎氏が確認したことである。

2  上記道路から、脇道に入った所の街路樹である。名前がはっきりしないが、紅くなった街路樹も混じり、これは是で秋らしい風景である。
 残念ながら、九州では紅葉の名所は別にして、普通のところでは辺り一面紅葉という風景にはなかなか出くわさない。
 福岡近辺では、今時分でも圧倒的に緑が多く、雄大な紅葉を見ようと思えば、やはり阿蘇、九重、五家荘といったところまで出かけるより仕方ない。

 

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2009年11月 7日 (土)

古代史の謎42:武人大王出現と墳墓巨大化

009  3世紀末古墳時代に入り、4世紀初頭(前期古墳時代)にかけ、円墳や方墳などから、次第に大型の前方後円墳を築造するようになってゆく
 シャーマンの支配する小国家群が、武力により統合され、武力に優れた大王が倭国の統一に向け力を発揮した。そしてその威力を維持し、誇示する意味からも墳墓規模も巨大化し、のちにはピラミッドに匹敵する古墳群が大和盆地から河内、難波に出現するようになる。

 前期古墳時代で代表的なのは、三輪山周辺の景行陵(310m)、崇神陵(240m)、箸墓古墳(275m)の他、最近発掘で知られた桜井茶臼山古墳メスリ山古墳があり、又奈良周辺の神功陵(275m)、成務陵などである。
 大和の周辺に200mを越す古墳もあるが、標準的には100m前後の前方後円墳である。

 埋葬品の特徴としては、青銅鏡や硬玉製の勾玉、碧玉製の管玉、鉄製の剣や鏃などの武器類である。中でも特徴的なのは、卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡や画文体神獣鏡などの青銅鏡のほか、鉄製の剣や鏃などの武具類のほか、鉄製農工具もあり、大王が武を持っての統率者であると同時に土木工事や水田開発の指導者、技術者でもあった事を示しており、時代の変化が起きたことがわかる。

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2009年11月 5日 (木)

秋を歩く:果実熟れる

 ここ2,3日、夜間の冷えは師走並みとか。しかし、昼間は秋日和で、結構暖かい。昨日は筑前に黒田氏が入る前の立花城の出城であった「御飯の城」城跡を見ようと出かけた。近くの新興住宅街の公園には、案内版があるものの、城跡への道が判らず。
 今回は諦めて、往復の道端の「秋」を楽しみながら、熟れた果実の写真を撮ってきた。

Photo  果皮ごと丸かじり又は果皮だけ生食できる。味はチョッと甘みと酸味がある。果皮のまま、砂糖漬けや蜂蜜漬けにして食べると、咳や喉の痛みに効くといわれている。
 観賞用として、庭木や盆栽にされることが多い。

Photo_2  観賞用として、盆栽や庭植えされている。食べても酸っぱ味が強く食用には不向きだが、花と果実の両方が鑑賞できる

Photo_3  漸く色付いてきたが、食べられるのは来夏である。
是は日本では新しい果物である。江戸時代山口県仙崎の青海島に漂着した柑橘の種を西本於長なる人物が播いて育てたのが起源とか。
 昭和初期に大分で発見された甘夏が昭和40年以降全国に広がった。勿論現在はこの甘夏が主流である。

Photo_4  これは久保柿である。もう葉が散ってしまい、熟柿になっている。ご覧のとおり、今は雀が寄ってきている。4羽居るのがわかりますか。この後、寒くなると熟し落ち始め、鴉の餌になる。

 

 

 

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2009年11月 3日 (火)

古代史の謎41:神功皇后の新羅侵攻は史実?

Photo  古事記では、仲哀天皇が熊襲征伐で筑紫に行き、新羅征伐の神託が降るが、是を受けず、神の怒りにより落命。改めて后の神功皇后御神宣を賜り、軍備を整えて朝鮮に渡船。新羅国に行くと、新羅王は神霊により戦わず神功軍に下り、その後毎年朝貢した。という。しかし、これはあくまで「古事記」という神話の世界。

 しかし、当時の朝鮮半島は、3世紀に起こった馬韓、辰韓、弁韓の三韓時代をへて、4世紀には百済、伽耶、新羅となっていた。半島北部には強大な高句麗があり、この4国が半島を巡りしのぎを削っていた時代である。
 この時、半島と交流のあった倭国も百済、伽耶と連合し高句麗に対した。このような関係から、大和朝廷が半島に対し軍事行動を起こしたのは事実である
 ただし、新羅とは直接相対立したわけではないので、上記神功皇后の新羅侵攻とは関係ないという。

 恐らく、7世紀半ば斉明天皇が百済支援に九州に赴いた史実を、4世紀に繰り上げて、神話化したというのが通説である。

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2009年11月 1日 (日)

秋を歩く:秋桜・柘榴

 昨日も秋晴れで、空は高く、小さく浮かぶ雲が美しい。川沿いを上流に向かって歩くと、田園風景が広がる。風が爽やかで気持ちがいい。川の水が澄んで小魚が泳いでいるのが見える。それを狙ってか、1羽の白鷺が飛んできて、浅瀬をゆっくり偲び歩きしている。

010   そんな中、少し足を伸ばしたら、あたり一面がコスモス畑となって、実に見事なものであった。畑の周りは車も走行できる農道で、車窓からの鑑賞客が車を連ねている。勿論歩行者の見物客も多い。この畑のコスモスは切花用なのか、野良着の女性達が丁寧に花を摘んでいた。
 空地にテントが張ってあり、野菜や穀類の農産物、手作りの醤油や味噌、みかん、柿、梨なども販売して「道の駅」並みである。土日、祝日は人でも多いであろう。

1  帰り道、民家のそばを通ると、庭に沢山の実をつけた柘榴(ザクロ)に出会った。この地方は、柘榴をよく庭に植えているのを見かける。
 しかし、今年は天候のせいか、美しい実がなっているのが少ない。本来大きな実で、つやつやと赤く、ぶら下がっている物なのだが、写真のように実の数は多いが、色が悪く、実も小さい。風に吹かれて傷も多い。残念である。

 尚、時代小説に風呂の入口のことを、「柘榴口」とよく書いているが、これは柘榴が鏡の曇り止めに利用された事から、「鏡鋳る(磨くこと)」「屈み入る」をかけた言葉である。

 

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