« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »

2009年10月

2009年10月30日 (金)

古代史の謎40:ヤマトタケルは二人?

Photo  ヤマトタケルノミコト日本武尊或いは倭建命とも書く)は12代景行天皇の御子で、本名は小碓命(おうすのみこと)という。記紀両書とも日本武尊のことを記載しているが、内容は若干異なる。

 古事記では、日本武尊は幼少より武力に優れ且つ粗暴でもあった。父景行天皇が討伐した熊襲が再度謀反したとき、九州に赴き討伐した。その後もその粗暴を恐れた天皇は、嫌がる日本武尊を東北の蝦夷征伐に追いやり遠ざけた。しかし、後半の日本武尊は打って変わって、心細げな柔弱な武将の姿として描かれている。
 この大きな日本平定の為の討伐戦を行なったこと、2度の討伐時の勇猛と柔弱の差が大きいことなどから、
実は二人の武将が地方の有力首長討伐の戦をしたのを、一人の戦に纏めたと言われる所以である。

 一方日本書紀では、一貫して父との確執は無く、従順で優れた皇子として描かれている。そして書紀では物語性に乏しい

 書紀・古事記共に、熊襲、西方征伐と東方蝦夷征伐を行いながら、故郷の地を踏まずに亡くなったことは一致している。
 当時、各地の勢力者を討伐しながら、大和朝廷の基礎が築かれつつあった情勢下では、武勇に優れた多くの武将達によって、倭統一が進んで行ったことであろう。

 以上の事から、日本武尊は実在したが、複数の人物の活躍を一人に纏めたことは間違いないであろうといわれている。
 邪馬台国時代のあとの「倭国大乱」時代のことであろうか。シャーマンによる呪術より、武力に優れた人物による支配が大きくなってきた頃のことである

 尚、日本武尊の歩いた道と製鉄遺跡の存在地が一致するというは、東北学院大の窪田蔵郎氏である。製鉄技術は半島から来て、その伝播は半島人が日本国内に渡来し、地方に進出移住し、住み着いた事績であろう。何れにしろ、この時期渡来した技術や知識を持って先住民を凌駕し、支配下に置いていったと思われる

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月28日 (水)

秋を歩く:不老水

Photo  晴れて気持ちがいいので、秋を味わうために、いつもの散歩コースを外れて、山裾の道を歩いて香椎宮へ行った。残念ながら平地部では紅葉はまだ早い

 香椎宮の裏側にたどり着くので、久しぶりに「不老水」を見た。ここは本殿から300mほど離れた「武内宿禰」屋敷跡と称される場所の直ぐそばにある。飛地ではあるが、香椎宮の境内であるという。

3  この手前には石造りの鳥居があり、「不老水大明神」とある。この祠の中に、径1m足らずの石組みの低い井戸がある。溢れては居ないが、枯れたことがないと言う水面が上方で、手杓で水を汲み取れる。1人ペットボトル2本までの持ち帰りが許されている。
 説明書きでは、日本三名水(因みに、1.岐阜県養老の滝「菊水泉」 2.奈良県湧水群「ごろごろ水」 3.福岡県香椎宮「不老水」であるそうな)の一つと大書きされている。
 尚、環境庁の「名水百選」認定書も祠の前にある

4  祠の前に建ててある図である。なかなか上手く、綺麗に書かれているので写真を撮った。皇紀859年(紀元199年)に、武内宿禰(大臣(オオオミ))が、三韓征伐に向かうためこの地に逗留された仲哀天皇にこの「聖水」を奉献したときの図である。結果「この聖水の冥助により、大偉勲は煌き亘り」とある。
 宿禰は毎日この水で炊飯、酒造など行い、300年の長寿を保ったという神話伝説により、「不老水」と名づけられ、今でも毎日この水を採りに来る人は絶えない。

 

 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年10月26日 (月)

古代史の謎39:二人の初代天皇

Photo  初代「神武天皇」から10代「崇神天皇」までのうち、2代から9代天皇までは、古事記、日本書紀共に、殆ど系譜の記述のみで、各天皇の事績には触れていない。つまり名前の羅列のみなのである。しかも同じ名前の天皇が出て来る。

 特に初代神武と10代崇神は和名では同じく「カムヤマトイワレヒコノミコト」(「神日本磐余彦命」、或いは「神倭伊波礼毘古命」と記す)と呼ばれた。或いは、初代天皇となった神武天皇「ハツクニシラススメラミコト」(始馭天下之天皇)とも呼ばれる。対して崇神天皇「ハツクニシラススメラミコト(初国所知之天皇)と呼ばれ同名なのだ。

 即ち初代から9代までは架空の天皇であり、「欠史八代と言われている。
 皇祖がこの世に出現したのは紀元前660年であるとし、それ以来連綿と続く万世一系の皇統譜を作るには、相当長命の天皇や実在しない天皇を創る必要があったというのが、現在大方の見方である。
 尚、神武天皇と崇神天皇は同一人物であるが、東征の部分を神武天皇とし、橿原宮造営と日本統一の治世を崇神天皇としたという説もある。

 但し、最近の考古学では、日本列島には紀元前700年どころか、5,000年前(縄文前期)頃から、既に小国家というべきものが存在していたというのが通説と成りつつある。
 それ故、天皇の原形たる首長の存在は有ったであろうから、初代から10代どころか、もっと多くの「王たちの存在」があったはずと主張する人も居る。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年10月23日 (金)

金木犀が香る

3  金木犀が一斉に香りだした。ウオーキングで住宅地を歩いていると、あちこちの庭から金木犀の香りが流れてきて、気持ちがいい。
 「香り」には人間の精神状態に影響を与えるものが多いようだ。気分を落ち着かせるもの、反対に高揚させるもの、或いは爽やかな気分にさせるものなどいろいろあるが、これは人によって違う影響をするものだろうか。

 その証拠が、人によって「香り」「匂い」に対する好き嫌いがあるようだし、特定の匂いに対する感応度にも相異があるのではないだろうか。

 一口メモ:金木犀は中国南部桂林地方が原産地。桂が木犀のことで、木犀の林が多いことが桂林となった由。金木犀の中国名は「丹桂」とか、丹は橙色のこと。日本へは江戸時代の初期に到来。静岡県の県木。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年10月18日 (日)

古代史の謎38:吉野ヶ里は女王国

0032  弥生時代中期後半の吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は、この時代に現れ始めた首長(王)墓だと推定される。甕棺埋葬墓群の南側の石蓋甕棺墓からは「前漢鏡」「貝製腕輪」及び衣服の一部と見られる「絹布」が出土したことから只者ではない女性だと判断された。

 前漢鏡は7.4cm、「久不相見、長母相忘」の銘がある上質の連弧紋鏡である。大陸との交易で入手されたものだ。
 又、腕輪南海産のイモガイ南方との交易ルートで入るものである。腕輪の数量も多く、且高級品である。絹布との組合せでも、国際交流の表舞台に居た首長クラスの人物と見られる。

 国家創成期の実力者で、卑弥呼を連想しても可笑しくないと言われる由縁である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月16日 (金)

実りの秋

 秋晴れの午後、カメラもってウオーキング。気温は22、3℃で、湿度が低いせいか大変爽やかである。植物の実が熟し始め、実りの秋の到来である。そろそろ食べごろになる”実り”の写真を掲載しよう。

Photo  先ずは柿。良く歩く道すがらに、毎年沢山の実をつける木だが、この柿はきっと渋柿だろう。持主もとらないし、誰も取って食べた気配が無い。いやカラスさえ食べないから吊るし柿かな。

Photo_2  ついで、温州みかん。この近辺では庭先に蜜柑を植える家が多い。勿論、蜜柑畑を作り、蜜柑狩りなどで、園内では食べ放題の出来る蜜柑農家も多い。

Photo_5  更に夏蜜柑。これも庭に植えている家も多く、蜜柑畑も多いが、収穫は来春なので、今のところはまだ青い。

Photo_3  次に珍しい花梨(かりん)が生っていたので撮った。花梨は硬くて生食は出来ないそうだが、花梨酒を作ると香りが良く、又風邪にも良いとのこと。

Photo_4  最後に果物ではないが、ぎっしりと実をつけたピラカンサス(たちばなもどき)があったので、写真を撮った。
 ここらでは、ボツボツ稲刈りが始まったばかりである。食欲の秋で、体重を気にしながら、美味しい食べ物が次々と出て来る季節となった。

 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年10月14日 (水)

古代史の謎37:吉野ヶ里環濠集落

Photo  吉野ヶ里遺跡は佐賀・吉野ヶ里町と神崎市に跨る段丘上にある複合遺跡(旧石器時代~中世)だが、代表的なのが広大な環濠集落遺跡(弥生前期~後期)である。内外二重のV型空堀と土塁、城柵に囲まれた40haの集落遺跡で、南部を守る南郭と北部を守る北郭に夫々6本柱の物見櫓があった。
 又多数の戦闘具の出土品とも合わせ、厳しい戦闘状態が継続したことが伺える

 南部王の家である南郭を中心に、武器武具類や交易品保管の高床倉庫部と市場跡が固まってあり、その外れに竪穴住居跡がある。
 北部は祭祀跡が中心の主祭殿(径50cmの柱16本の大型重層の建物)の他、最高祭祀者の高床住居3,100基の甕棺が並ぶ墓地と30m×40mの巨大墳丘墓があった。

 これは邪馬台国時代の倭国大乱のときの小国家群のひとつであったろうと推定される。それは戦闘の終焉を示す大量の武器が堀りに埋められており、ほぼ三世紀頃には集落も消滅しているからである。ほぼ同時期に近畿一帯の環濠集落や高地性集落も消滅していることからも倭国大乱が終わり、古墳時代に入ったことをも示している

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月12日 (月)

秋の丹波

 この三連休、法事のためふるさとの丹波へ行った。丁度、実りの秋の収穫時で、丹波名産の栗、マッタケ、黒豆(今は枝豆)等の収穫時期で、”味まつり”と銘打ったイベントがあるせいか、その人出の多さに驚いた

 町の中心には篠山城があり、近年大書院が復元され、城下の武家屋敷等の整備もされたせいでもあろうが、街中の道は歩行者天国の観を呈し、大分の由布院や山口の萩市などと同じように、町並みを眺めながら、ぞろぞろと歩いているのである。
 最近はこんな状況が常態化しているのかと、不思議な思いで眺めた。

 例の高速料金1,000円の影響もあり、行楽シーズンで、阪神間辺りからドライブを兼ねての行楽であろうが、街からJRの駅(高速道のICの近く)までの約6kmの道路は車が渋滞。通常10分のところが小一時間もかかり、帰りの列車は一列車遅らせる破目となった

 只、これはこの不況時、如何に安価に、楽しく、家族連れで、実益を兼ねて過ごせるかの最終選択の結果であろうかと下司の勘繰りをした次第である。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年10月 7日 (水)

古代史の謎36:御神体が西向きの出雲大社

 普通の神社はご本殿が南向きに建っており、当然内部のご神体も南向きであり、本殿に向かって南にある拝殿からは、北向いて御神体に向かって真正面から参拝するように建っている。

Photo  しかし、出雲大社のご本殿と拝殿の位置関係は同じながら、ご本殿内部のご神体(大国主命)は西向きに鎮座されている。従って御神体に向かって正面から参拝しようと思えば、西側の塀の外から東向いて拝むより仕方ない。(写真左上がご本殿)。

 何故このような祀り方がされたのか。一般論では大社建立時には、北九州との交渉が重要視されていた事の反映といわれる。即ち当時、倭の国は新羅との往来が盛んであり、半島から北九州に着き、日本海沿いに出雲に渡来しており、これらに対する尊崇の念を示したものとの説である。

 異論としては、その後出雲を滅ぼした大和朝廷は、大国主命の怨霊を怖れ、御霊を鎮めるために、日本一の高層建築である大社を建て、手厚く祀った。しかし、それは怨霊への恐怖からこれを封じ込めるための神社であるため、西を向かせ、拝殿から正面には別の神々に相対するように陪神を安置し、参拝者が大国主命を正面から拝めないようにした配置であるとも言われる。

 巨大建築、ご神体安置の仕方、拝礼作法の特異性など何れも一般神社と異なることが多く、その理由が判っていない謎の神社であり、古代出雲王国の解明と共に徐々に判ってくるであろう謎が多い。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年10月 6日 (火)

秋深まる

 台風18号が日本列島に近づきつつある。現在沖ノ鳥島近海にあり、中心気圧920hPa、最大風速55m/s、瞬間最大風速75m/sという「猛烈」な台風で、西北西に進んで居り、8日頃日本列島に直撃の怖れ有りとの予報である。因みに風速30m/s以上で木造住宅の倒壊が始まるという。

 この影響かどうか判らぬが、先日まで最高気温が28~30℃、最低気温が20~23℃であった福岡では、今週予報は最高23~25度、最低17~19℃と成っている。
 昨日から、朝夕は勿論昼間も、長袖、長ズボン姿になった。

 つい先日まで有った夏が突然消えて、秋がどっと押し寄せてきた感じである。朝は霧が立ち込め、柿の実も葉も色付き、稲穂も垂れて刈り取り準備が進んでいる。急激な変化に驚くと同時に、やはり寒さに向かう一抹の寂しさを感じざるを得ないこの頃である。

 とは言うものの、行楽の秋でもある。今週土曜からの3連休、関西方面に出かける予定だが、列車指定席や宿泊予約が埋まりつつあるという。
 何とか、台風が逸れて、太平洋上を抜けてくれることを祈る

 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年10月 4日 (日)

古代史の謎35:出雲王国の存在証拠

Photo  前回の荒神谷遺跡の直ぐ近くの加茂岩倉遺跡(島根・斐川町)は平成8年に農道工事で偶然発見された。その後の2年間にわたる調査の結果、考古学史上最多といわれる39個の銅鐸が出土した。

 この出土状況が特異であったのは、規則的に配列され、大半は鰭を立てて横たえた状態にされており、小さいのは大きい銅鐸の中に入れ子にしてあった。
 このような事例は初めてであり、何らかの特別な意味を持った埋納であると思われる。

 出土した銅鐸は文様の特徴などから、大半は河内や大和、和泉などで製作されたものと見られるが、出雲で製作されたものも見つかっている。銅剣の出土とも合わせ、出雲が青銅器文化の中心地であったことが推定され、且大和との交流も裏付けている(弥生時代後期か?)。

 尚、近くに磐座(いわくら)「大岩」があるため、岩倉と名づけられたのであるが、この大岩は御神体石なのである。即ち出雲のカムナビヤマである仏経山にあった矢櫃神社(出雲の首長神を祀る)の磐座群のひとつである。神話の世界(出雲国風土記)と史実が密接に結びついている遺跡なのである。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 2日 (金)

古文書判読

 歴史好きが嵩じて古文書が読めたらと、古文書教室(地方自体主催)に通い始めて1年半。余り崩れてない書体で、癖の無い字であれば何とか大意は摑める程度にはなった。

 しかし、昔から字の下手な人は居たもので、標準的な崩し方をしないで、独特の字を書く人、当て字を使っている場合(日本語は元々漢語を当て字に使ったもの)、所謂汚い字などの場合はなかなか読めない。

 崩し字から元の字を引くような辞書は無い。そこで前後の言葉や文章から概要を想定し、草行書辞典などで何通りかの候補字を探し引き当て、確認するという手順で読んでゆく。大層な時間と根気が要るが、ある種の推理力が必要で、推理が的中した時の喜びも大きい。
 そんなことを楽しみながらやってきたが、先輩の話では、この教室で2年やれば何とか読めるようになる由。あと半年の辛抱!

 そんな時先日買った電子辞書には「新漢語林」なる漢和辞典があり、索引するのに「手書き入力」の方法があり、付属のペンで手書き入力すると候補字が出る。試しに草行書体の字も入力するとチャンと候補字が出る。但し、入力した字自体如何でいろんな字が出すぎるので、余り役には立ちそうに無い。(パソコンにも同様の機能があるが、アイコン操作の入力なので難しいが、この辞書は鉛筆書き感覚で入力できるが・・

 この辺り電子辞書メーカーに、もう少し頑張ってもらい、草行書体漢字の逆引き可能なものが出来るのを心待ちしている次第である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »