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2009年9月

2009年9月30日 (水)

古代史の謎34:出雲王国の中心荒神谷

Photo  出雲は神話の世界と解されていたが、史実との結びつきが解明され、出雲王国の存在が現実味を帯びだしたのは、昭和59年荒神山遺跡が発見され、多量の銅剣が纏って発見されてからである。
 その後出雲大社の巨大心柱が発掘されたりして、神話の世界が現実の王国の存在へと変化し、古代史観が大きく変化した。

 島根県斐川町(出雲大社と宍道湖の中間)にある荒神谷遺跡から、昭和59年に358本の銅剣が纏って発掘された。更に翌々年にかけ銅鐸6個、銅矛16本の青銅器が見つかった。
 それまで全国での発掘銅剣総数が約300本で、これを超える数であり、銅鐸、銅矛も一緒に埋納されているのも全国初の事例である。
 青銅器を祭祀用具として一括して扱った巨大勢力があったことは否めず、出雲を神政国家として統治した祭祀者が居たであろう。

 但し、弥生後期、鉄器類の渡来による生産用具の普及で、青銅器文化が終焉した事実を示す遺跡とも言われている。或いは大陸からの新勢力に制圧された事実を示すとの説もある。倭人伝に言う「倭国大乱」の一端かも知れない。

 尚、荒神谷遺跡は正確には神庭西谷にある。この神庭は「神の庭」で「祀りの場」と解釈され、西谷は「さいだに」で「斎=祀り」の谷の意味で、「祀りの場」であったとも解されている。

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2009年9月28日 (月)

最近面白かった本

 相変わらず「時代物」を好んで気楽に読んでいる。
 その中で、昨日読み終えた上田秀人の「勘定吟味役異聞」全8巻(光文社文庫)が近頃珍しく面白かった。

0021  上田秀人なる作家は失礼ながら知らなかったが、暇つぶしに寄った店頭で見て面白そうなので1巻を買った。読んで見ると結構面白く、調べると当時6巻まで出ていることは判ったので、順次読みながら買い進めた。
 ところが6巻を読み終えた段階で、最近人気が出たのか、7,8巻が何処の店頭でも品切れ。大型店でも割り当てがあって、2週間先に1冊入りますとの返事。半分諦めていたところ場末の小さな書店に運よく7,8巻とも残っていたのを直ぐ買い、昨日読了した

 5代将軍綱吉のときから6代家宜、7代家継の間、会計監察のみならず業務監察までの権限を持ち、何処にでもフリーパスで(大奥でも)出入りできる権限を付与された「勘定吟味役」が設置され、勘定の家から選ばれた。
 主人公水城聡四郎は勘定の家(550石)の四男に生まれ、次三男が他家へ養子に出て、部屋住みの身分で剣術に明け暮れていた。ところが、急死した兄を継いで急遽家督を相続。勘定役に召しだされ、新井白石に重用され、悪貨改鋳を暴き老中を誅すことから始まっている。

 以降数々の悪弊に挑むが、7代将軍後継問題、吉宗の大望、柳沢吉保の陰謀、紀伊国屋門左衛門の暗躍等々、歴史上の著名人との絡みの中での活躍が描かれているが、しっかりした史実を踏まえた中に構築された物語であり、相当に綿密に構成された長編である。作者は元歯科医であり、本作品も4年がかりでの完成の物で、いい加減な文章ではないことが、この本を面白くしている

 時間が無くてもゆっくり楽しみながら読む方にお勧めの本である。

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2009年9月26日 (土)

古代史の謎33:朝鮮半島との交流遺跡

 福岡市西部のドーム球場近く、地下鉄工事及び高校立替工事で見つかった大規模な集落遺跡の西新町遺跡弥生末期~古墳時代の物である。

020  竪穴住居跡から朝鮮半島系の各種土器や土器製ガラス玉鋳型などが多く出土し、朝鮮式の竃(かまど)遺構も出た。古代日本では穴で火を焚く「炉」を用い、朝鮮は粘土でドームを組んだ竃を用いた。これから判るように、半島との弥生人の頻繁な往来や、渡来人の居住がわかる。

 日本には無い灰色の土器は、登り窯で焼いたもので、把手なども日本の土師器とは異なるものが多い。
 ガラス小玉鋳型は半島出土品と共通している。又、中国後漢の貨幣「貨泉」も出土している。そして、住居は暖房用の朝鮮特有のオンドル式煙道の遺構が出ている。

 更に西新町の墓地となるのが、700メートル西にある藤崎遺跡である。方形周溝墓18基が発掘され三角縁ニ神ニ車馬鏡、三角縁盤龍鏡各1面ずつが見つかっている。

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2009年9月24日 (木)

難しい電子辞書

 6年間使ったSEIKOの電子辞書は使い慣れているので便利であり、字を書くときは愛用していた。ところが、先日画面明るさ調整をしたら突然青い画面になり、いくら弄っても直らない。仕方なくメーカーのサービスセンターに電話したら、修理できるかどうか判らないので、送ってください。但し、故障の症状を聞く限りでは、修理に相当費用も掛かり買い換えた方がいいかも知れませんとの事。仕方無く、この際買い換えることにした

 早速、先日新しい電子辞書CASIOのEX-wordが届いた。同じ買うならと内容豊富なものを選んだので、辞書類のまあ盛り沢山な事。又タッチペンも付属し、入力検索法も種々ある。
 先ず使いはじめに画面明るさ設定画面が出たので、濃いほうが見やすいかと設定した。が、画面全体が暗くなり却って見辛い。そこで、再度調整をと思い、濃淡設定画面を出そうとしたが、取説を見ても、設定画面での設定方法はあるが、其の設定画面を出す方法がわからない。サービスステーションは連休のため電話がつながらない。

 諦めて暗い画面のまま夕刻まで使用。夜、今一度丁寧に取説のページを繰って行くと、「キーボードを使う」という項の「環境設定のやり方」の説明で、「設定項目」の表示図があり、その図中に「液晶パネル設定」の文字を発見。コレダッ!と思い、キーボードの説明図の中で「液晶パネル設定」画面への道に辿りついた次第である。
 たったこれだけの事なのだが、何故各種設定する際の「設定画面の出し方」を記載しないのか。多分造る側と使う側の必要感の差なのだろうが、往々にしてよくある不満である。メーカーには使う側の立場での説明を願う次第である。

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2009年9月22日 (火)

古代史の謎32:温存されていた住居跡

0012  大阪・八尾市南部の八尾南遺跡弥生後期の、竪穴住居、掘立柱建物、井戸、水田などの集落遺構がフルセットで、極めて良好な状態で出土した。
 この遺跡の真中を流れる大和川が氾濫した際、土砂に埋もれて保存されたからである。

 10軒の竪穴住居跡の内9軒は土盛りして周堤を巡らせた構造で、竪穴の深さは1メートルにもなり、柱を立てた屋根では十分な高さの物である。
 1辺が7メートル前後の大型住居跡は屋根を支える柱が4~5本、1辺5メートルの小型住居跡では2本の柱で支えられて居た。

 尚、注目されたのは、葦の茎に粘土を貼り付けて壁を補強したり、壁際下の側溝には蓋を被せるなど工夫がされて居るのがそのまま残されていることだそうだ。又、土器に描かれたゆったりとうねる曲線の線画は水神の龍を描いており、水に関わる祭祀が行なわれていたと推定されている。

 日本の古代では蛇が神として祀られることが多いが、龍は中国の殷周時代の青銅器文様で、中国の影響もあった事が伺えるが詳細は謎である。

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2009年9月20日 (日)

秋が見え始めた

 今日も朝から快晴で、シルバーウイークと名づけられたこの連休も、高速道は行楽の車が数珠繋ぎとなっている。
Photo  早朝ウオーキングも半袖、短パンで真夏と同じスタイル。昼間は暑くて庭仕事も出来ない。晩夏に鳴くはずの蝉がいまだに鳴いており、稲穂がやっと色付き始めたばかり。稲刈りはまだ先のようだ。

 しかし、いつ秋になるかと心配になりかけた昨今、漸く秋らしい風景が見られ始め、秋の気配も感じられるようになってきた。
 ここ九州では、畦道に真っ赤な曼珠沙華が咲き始め、コスモスも少し咲き始めた。何より空が真っ青で高くなってきた。勿論浮いている雲も秋のものである。
 八百屋の店頭には、果物も秋の物が並び始め、葡萄、梨、柿、栗、蜜柑と続くだろう。やはり旬の果物が美味しいのだ。

 外出が楽しくなる季節の到来であるが、こうなると多分まわり全部があっという間に秋になるだろう。そして、秋めいてから冬になるのも早い。冬籠りの前に、うんと身体を動かして、体脂肪を減らしておかねばと思っている。

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2009年9月18日 (金)

古代史の謎31:卑弥呼の鏡の謎

003  卑弥呼の墓の所在地ひいては「邪馬台国」の所在地を突き止めるに、大きな鍵となるのが、魏志倭j人伝に『其の年(景初ニ年)の12月、詔書して倭の女王に報じて曰く「・・・又特に汝に・・・・銅鏡百枚、・・・・を賜い」、云々』と記され、銅鏡が贈られたとある。その後の朝貢時に賜ったとの後漢書の記述もあわせ、中国から倭に380枚の銅鏡が贈られたことになる。

 ところがこの鏡がどのような鏡かが一切判っていない。それが、何故「三角縁神獣鏡」となったか。其の論拠は京大考古学教室は「三角縁神獣鏡」は中国・魏の鏡であると指摘していたが、1952年に京大・小林行雄氏が「三角縁神獣鏡同笵鏡分有関係論」なるものを提議した。これが卑弥呼の鏡が「三角縁神獣鏡」だとする説を補強した。

 その後、京都・椿井大塚山古墳から32面の三角縁神獣鏡が出土し、又大和政権の中枢地域とも言われる天理市・黒塚古墳から、平成10年に三角縁神獣鏡が34面でたことにより、邪馬台国大和派を元気付けた。
 しかし、
1.三角縁神獣鏡はわが国では500枚も出ているのに、中国では1枚も出土してない。
2.この鏡は弥生時代の墳墓からは出土せず、殆どが4世紀の古墳時代の墳墓からの出土。
3.紀年鏡(年号鏡)はわずか10枚であり、三角縁神獣鏡は4枚に過ぎない。但し、これらは235年~244年の銘がある

 紀年鏡の年号が渡来した年号とは限らないこと、中国になくとも倭向けに特鋳も可能なこと、持ち運びが簡単に出来ることなどが鏡による邪馬台国或いは卑弥呼の墓の特定を困難にしている。更に三角縁神獣鏡は弥生時代の遺跡からは出土したものが1枚もないことが謎を深めている。魏朝は本当に鏡を授けたのかとの疑問さえ出始めている。
(関連:小生のホームページhttp://hihabe.com/の「邪馬台国を探そう」

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2009年9月16日 (水)

民主党内閣発足

 今日は歴史上の画期的な日であると位置づけられる。与党であった自民j党政権が撤退し、民主党内閣が発足した日であるからである。2大政党による政権交代が実現し、自民党以外の万年野党が本格的な政権を発足させたから、画期的なのだ。

 戦後60年余が経過し、漸く民主的な政権交代が実現したともいえる。国民が選んで支持した政党が政権をとり、政治を行なうという全くの民主主義の原則を、将来に亘って守り抜いてゆくことが必要なのだ。

 このルール・原則をこそ、しっかり守り、壊れないものにする努力を、我々国民はしっかりと日常的に考え実施してゆき、それを壊そうとする勢力と対峙してゆかねばならない。そしてこそ真の民主主義が根付いてゆくことになる。

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2009年9月14日 (月)

古代史の謎30:高地性集落

 魏志倭人伝に「倭国乱れ、相攻伐すること年を歴し、すなわち共に女子をたてて王と為し、名づけて卑弥呼という」とある。倭人伝より編纂の遅れた後漢書にも「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し暦年主なし。一女子あり、尚卑弥呼といい云々」とある。
 即ち中国の桓帝と霊帝の間とは紀元147年~188年の間、倭国が大いに乱れとある。

Photo  この頃に対応する遺跡に、高地に作られた集落がある。主なものは図示の通りであるが、これ以外にも瀬戸内沿岸沿いの高地に多くの環濠集落が作られた。
 これらは多量の武器類も出土し、堀を巡らした戦闘的な構えのものである。それに貝塚もあり魚労生活者であろうと見られるが、何ゆえ海人が山の上に集落を作ったか。

 これはまさに倭国大乱に対応するために、各集落(クニ)が戦闘を繰り返し、徐々に弱小国が壊滅して行き、原始国家を生み出し、連合国家へと成長していった経過を示す証拠の遺跡と考えられているが、この説に疑問を呈する史家もある。

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2009年9月12日 (土)

久しぶりの雨

 今日は珍しく朝から雨が降り出した
 昨日までずっと晴天が続き、庭木が水を欲しがっていたところだ。少々の散水では焼け石に水の如く、ほんの表面だけが湿る程度で、とても根っこまでは行き届きそうにないので諦めていた。

 そしたらなんと皐月が枯れ始めたではないか。これはいかんと思ったが後の祭り。
 何故か知らないが、水不足状態になると例の毛虫が増え始める。ちょっと触っただけで、刺されて体中に湿疹状の斑点が出来、とても痒いのだ。皮膚科で貰った薬でも1週間以上経たないと治らないという奴である。

 そんなことにはならないようにと願っている矢先の雨降りで、予報では夕方まで降るそうで、梅雨のようにしとしとと静かに降っている。これでなんとか庭木も元気づくだろう。
 雨後は急に秋と成るであろうが、それもまた良し。爽やかな秋の到来で、人間様も元気付くだろう

 

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2009年9月10日 (木)

古代史の謎29:女王卑弥呼は誰?

Photo  魏志倭人伝の「卑弥呼」というのは、歴史上実在したどの人物のことであろうか。
 一番古い説では、官選史書である「日本書紀」が編纂された8世紀には、魏志倭人伝を日本では当然知っており、女王卑弥呼が実在したことも判っていた。
 皇統譜である日本書紀に実在したとされる女王を載せないわけには行かない。そこで、日本書紀は年代的に無理のない卑弥呼の在位紀元200-250年の間に相当する神功皇后を当てたのだ。ところが初代天皇神武がBC660年に即位し、それから900年後に15代後の神功の子である応神天皇即位で、かなり長命の天皇を創らざるを得ないという無理が生じた訳だ。

 二つ目は前号にも記した箸墓古墳に埋葬された「倭迹迹日百襲姫命」である。崇神天皇の大叔母に当たる百襲姫は神がかりして崇神天皇を助けたり、天皇の叔父が謀反を企てたのを予言して未然に防いだりした。このように巫女としての高い能力を持ち、又大物主神とも結婚したりしていた高い地位の人であり、卑弥呼の立場と相通じるところがあるという。
 また箸墓古墳が卑弥呼の墓に擬せられることも都合のよい話であるが、現状は古墳築造の年代と卑弥呼死亡の年代が若干ずれていることが問題である。

 あと一つは天照大神である。須佐之男命などの男弟が居り、祭祀者の立場に居たことは卑弥呼と相通じるが、そのほかに具体的な根拠があるわけではない。
 唯、天孫降臨が九州の地であり、邪馬台国は九州に存在した。そしてその後東遷して大和に朝廷を立てたとする説に従うことになる。即ち神武天皇の東征がなければ皇祖からの繋がりが説明できないわけで、九州説が必須の条件でもあるわけだ。

  

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2009年9月 8日 (火)

政権交代

 選挙が終わって10日目。次期政権はどうなるのか、期待と不安交じりで、毎日の新聞を眺めている。

 マニフェスト等に謳ってある内容の実現に向け、尤も効果的に、且迅速に取組み実施できるような行政組織や意見集約機関が先ず検討され、その後それに最適な人事が行なわれるかと思っていた。

 しかし、どうやら先ず党内の大物の処遇を如何にするかを決めて、その人物に相応しい内容の組織や機関の設置やその権能が決められて行く様な気がする。

 これはやはり本末転倒ではなかろうか。というのは、国の立法、行政機関の基本は憲法の定めにより、夫々の組織、機関の権能はその関連法律により定められている。本来人の顔を見て、その中味が替えられるものではない筈だからである

 議院内閣制下の二大政党での政権交代はイギリスを参考にすべきであろうが、何しろ日本は本式の政権交代は今回が始めてである。これから、色々試行錯誤して真の民主主義を守り、育てるような組織運営を切に願うものである党利党略の前に、先ず国民の生活を維持、向上させる施策を願う。

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2009年9月 6日 (日)

古代史の謎28:「邪馬壹国」は何処?

 古代史最大の謎とされるのが、このテーマである。このペーパーではとても書き切れないので、物凄く大括りの超概論を示すに留める。
 邪馬壹国比定地問題に関しては、現在4~500冊の書籍が刊行されているという。詳細に関心ある方はどうかその方へ。又は、極く常識程度に知りたい方は小生のホームページ http://hihabe.com/「邪馬台国を探そう」のページへどうぞ。

Photo  先ず現在考古学者、史学者、民間の研究者、好事家、趣味の人たちがそれなりに自信を持って、「邪馬壹国」はここだと発表されているのは図示の通りで、これ以外に琵琶湖以東、北陸地方にあるとする説や外国だという説もある。
 小生は当ブログNo.25に記した如く、福岡市隣接の春日市の須玖岡本遺跡を中心とした一帯が邪馬壹国であったと信じており、後に大和の纒向(まきむく)に東遷したとの説を支持している。

 尚、魏志倭人伝のいう卑弥呼の使節が魏或いは晋より貰った銅鏡100枚、及び卑弥呼の死後造られた「径百歩の冢(ちょう)」を探し当てれば考古学的にも確定する
 しかし、卑弥呼の鏡は倭人伝に100枚とあり、その後4回ほどの朝貢に於いて贈られたものも合わせ380枚の鏡となる。何れもどんな種類の鏡なのかが魏志倭人伝や後漢書では判らない。
 一方これまで発掘されている
銅鏡は4,000枚、可能性が高い三角縁神獣鏡は500枚もあるが殆ど国産であり、これは比定の根拠と出来ない。
 次に、墳墓である「冢」は大きさが大和の
「箸墓古墳」(後円部の径155m)が略合致しており、最近の年代測定で卑弥呼の墓だと騒がれたが、放射性炭素による測定法には疑問視する人も多く、未だ確定していない。
 又、この墳墓は「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」が祀られ陵墓指定があるため発掘調査ができない。しかし、
百襲姫命こそ卑弥呼だという説もあるが・・・。

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2009年9月 2日 (水)

古代史の謎27:卑弥呼のまつり事と外交

 今回は魏志倭人伝にある卑弥呼の政り事と外交について見よう。
後漢書によれば、倭国はもと男王を立てて、7、80年は太平であったが、その後、倭国乱れ相攻伐したとある(DC147-189年)。

002  そこで、倭人伝によれば女子を立て王となし、名づけて「卑弥呼」という。鬼道につかえ能く衆を惑わし、年すでに長大なるも、夫婿なく、男弟ありて国を治む、とある。卑弥呼はシャーマンといわれるものだった。
 又、王となりしより見るもの少なし。婢千人をもって侍せしめ、唯男子一人飲食を給し辞を伝え出入す。即ち、殆ど人前に出ず男子一人が付き添い身の回りの世話をし、王の言葉を伝える役目を持っていた。
 住まいは、居処の宮室楼観には城柵厳しく設け、常に兵を侍して守衛すとある。

 外交面では景初2年(3年の誤りか)に太夫難升米を楽浪郡に送り、魏帝への朝貢を求め、郡の太守劉夏は案内役をつけ帝都まで送らせた。そして男の生口4人、女の生口6人、班布2匹2丈を献上している。
 この返礼として「親魏倭王」に封じ印綬を授けらるとある。又、正使難升米を「率善中郎将」、副使牛利には「率善校尉」の称号を与え、銀印と青綬を下賜した。
 このとき錦織、毛織物、絹織物などの他銅鏡100枚、金八両、刀、真珠、鉛丹などが与えられた。。この銅鏡100枚が邪馬台国所在場所を示すとして、大騒ぎになったものである。
 その後も
 正始元年(240年)魏の朝廷の詔書と印綬、金、絹、毛織物、鏡、刀など贈らる。
 正始4年(243年)卑弥呼生口、錦、丹木など献上。使者「率善中郎将」を賜る。
 正始6年(245年)倭の難升米に黄幢を賜る。(韓人反乱で実際には渡ってない)
 正始8年(247年)卑弥呼、狗奴国男王卑弥弓呼との争いを魏帝に報告。太守より使者あり、停戦を諭し戦乱収まる。

 以上卑弥呼と魏帝の間には数度の遣使が往来しているが、この頃邪馬台国には未だ服従しない国々もあった。しかし、魏も安定した環境にはなく、周辺国に対してもそれなりに丁重な姿勢を示さざるを得ない状況だったという

 

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