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2009年8月

2009年8月31日 (月)

民主党圧勝!

 選挙直前の報道機関等の結果予想でも、「民主党圧勝」の予測が流れてはいたが、現実に300議席を超える勝利になりうるとは思っていなかった。

 何故この様なことになったのか、色んな評論家が、色んな見方を述べている。どれも間違ってはいないだろう。
 しかし、私は一般国民はそんなに難しいことはわからないし、考えていないであろうと思う。端的に言って、小泉首相後の安部首相、福田首相、麻生首相と自民党の首相が次々に失敗を重ね、日本の国の向かうべき方向を示しえなかったこと、現実の経済環境の悪化、それから来る庶民生活の困窮度の拡大など、夢も希望も抱かせなかったことから、自民党への期待感が薄れてしまった。その結果、民主党への期待が大きくなったことがこの結果を招来したものと思う。

 自民党が自らの古い体質、政治手法を変え得なかったことが、庶民の政治に対する期待感を逆なでし、呆れさせたという事を、充分に反省し、自民党の再生に真剣に取り組まねば、本当の2大政党制とならない
 勿論期待された民主党はマニフェストに沿って、公約したことを確実に実現して行かねば、次回選挙では大きく支持率を下げることになる。まさにここが踏ん張り所だろう。国民を失望させない取り組み、展開を切に願うものだ。 
 

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2009年8月29日 (土)

古代史の謎26:「魏志倭人伝」での考古学

002_2  倭人伝に記載されている倭国の習俗や産物に関する記事は、当時の社会、生活等を類推でき、各地の遺跡出土品との合致が多く、記述の信頼性が高い。記述内容要点を下記する。

 男は皆顔に入墨し、体に模様を施している。又海人は潜るのが旨く、魚や貝を採り、体には入墨をし大魚や水禽類の危害を防いだ。
 この入墨は後には装飾となるが、絵柄には地方差や身分差があった。

 服装は男子は髪を両耳のところで束ね、木綿の布を頭に巻く。植物繊維の粗い布を肩にかけ腰を回して留める。女子は総髪を垂らして束ね、髷のように折り曲げて結ぶ。着る物は布の真中に穴をあけ、首を通して着る(貫頭衣)。

006_3  生業は禾稲を植え、桑を採取して養蚕し、生糸を紡ぎ、麻布や絹を作る。牛、馬、豹、羊、かささぎはいない。(牛馬は5世紀以降に日本でも飼育)。

 倭人は兵器として矛、盾のほか、木弓を使っている。は竹製は鉄、骨が使われている。倭地は温暖で四季を通じ蔬菜の栽培で野菜が食べられる。

 住居は雨露を凌ぐ茅屋、居間があって、夫婦と兄弟は一室には寝ない。食物木竹の容器を用い、手で食べる

008_4  死亡時、遺体を棺に納め埋葬するが、墓には外郭は作らず棺の上に土を盛るだけである。喪家では10数日間棺を動かさず、この間、肉食を止め喪主は号泣して閉じこもり、哀悼の意を尽くす。埋葬が終わると家族全部が水に入り禊を行い邪気を落す。

 倭では真珠や青玉を産し、山間では顔料の丹砂が採取される。植物ではしょうが、橘、山椒、みょうがなど野生しているが倭人は食さない。
 生活風習として、出かけるときは骨を焼いて吉凶を占う。酒は至って好きである。人間関係は貴賎尊卑の秩序で規制され、上下間の作法も厳しい租税が徴収され、官有物を収蔵する国庫が設けられている物々交換の市場もあり管理官がいる。

 以上古代人の生活状況が伺えるが、社会秩序の維持や国の経営上の規制など、国家としての組織や機能ができていた事が伺える。

 

 

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2009年8月27日 (木)

携帯の買換

 携帯電話の電池寿命が短くなった。それに厚さも25mmあり、嵩高く重い。身軽な服装で出かけるときも、この電話をポケットに入れて歩くのは厄介だ。何とかならぬかと思っているとき、某社の広告に新規購入は電話機代が無料、登録により家族間通話無料と言うのがあった。薄くて軽くてかっこいい。メリットを享受するために夫婦共に切替えた

 解約と、新規購入に2時間半かかったが、直ぐに使える新しいものを持ち帰った。早速取扱い・設定説明書と首っ引きで、何とか使えるようになるまで略半日かかった
 幸い電話帳は前のがそっくりコピーできたので、大幅な時間短縮だが、操作面は前の電話とは少しずつだが全て異なる。

 あの取説の小難しい説明と煩雑なのはどうにかならぬものか。その上、年と共に直ぐ忘れる。何回も同じところを読まねば成らぬ。習うより馴れろとよく言うが、慣れるべき操作法がわからないのだjから困ったものだ。

 ただ、近頃多い携帯関連の犯罪を防止する上では余り簡単なものではいけないか

 

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2009年8月25日 (火)

古代史の謎25:「魏志倭人伝」の真実

0033   今回から古代史最大の謎とされる「邪馬台国」関連に入る。先ず、邪馬台国論争の大本になっている「魏志倭人伝」について見てみよう。
 中国の3世紀の史家、陳寿が魏、呉、蜀の三国の歴史を編んだ。これが三国志である。この中の「魏書」は「魏志」ともよばれるが、その巻三十の「東夷伝」に含まれる倭人、即ち日本に関する条「魏志倭人伝」とよばれているものである。

 中国は周の時代(前11-13世紀)には「詩経」「書経」が出来ており、孔子(前551-479年)が「春秋(歴史書)」を表わし、没後に論語も編纂された。日本の縄文時代、中国は既にかなりハイレベルの文字を使い記録をした国だった。
 中国の歴史書「史記」は司馬遷がBC91年に書上げた130巻の大作で、質的に世界第一級の名著といわれる。これを手本に「漢書」「三国志」など正史に認定される歴史書が王朝交代ごとに出来ており、これらは自国以外に夷蛮のことも記録し、これに生命をかける官人がいたのも中国の特徴だ。

 三国志を書いた陳寿史家として魏、晋二王朝の内部で内外の情報を見聞きし、しかも邪馬台国時代の人だ。従って、彼の著した倭人伝が間違いだらけの文字で、且方向や距離をいい加減に記す筈はないという史家も多い。
 先ず「邪馬台国」だが、「台」は「臺」であるが、現存する三国志の刊本全て「臺」(だい)ではなくて「壹」(いち)が使ってある。尚、「臺」は通常、皇帝の宮殿をあらわすものだ。
 即ち陳寿が「臺」を間違えて「壹」としたことはありえず、邪馬台国は正式に「邪馬壹国」としか書かれてない事が判明してる。

 次に「邪馬壹国」の所在地であるが、これも倭人伝をキチッとそのまま読むことが提起されている。先ず伊都国までの比定地は現状、大方が同意している。
 唯方角は唐津(マツロ国)から前原(伊都国)方向は東北東だが、唐津湾沿いを進むには倭人伝どおり、東南方向に歩くことになる。
 次に伊都国から奴国には「東南至奴国」とあり、不弥国には「東至不弥国」とある。この表記の相違がポイントという。即ち前者は「東南の方向に奴国がある」との意で、単なる所在の方位表示。対して後者は「東に行けば不弥国に至る」の意で、歩いて進む方向を示しているという。

 以上より伊都国より東南の方向百里に奴国があり、伊都国より東に百里行けば不弥国に至る。その南方に邪馬国、女王の都する所が(隣接して)ある。と書いてあるというのが正しいという。
 帯方郡を出て邪馬壹国で1万2千余里とあるが、各区間ごとの里数と、対海国での方百余里と、一大国の方三百里は方形の2辺を加えると、丁度1万2千余里となり記述と一致する。尚、水行十日陸行一月とあるのは帯方郡からの所要時間を記したものであると解釈される。

 前述の不弥国の南、春日市には鏡、剣、玉が揃って出土した須玖岡本遺跡があり、璧(ガラス製)や中国製の綿も出ており、この辺りが「邪馬壹国」の可能性は大きいのである。
 尚、倭人伝の初の方に「山島に依りて国邑をなす」とあり、邪馬壹国が「島」と呼ばれる地域であったことも九州説の根拠である。

 

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2009年8月23日 (日)

阿修羅展を見た

Photo  帰省中の孫達を連れて、九州国立博物館の阿修羅展を見に行った。この展示会は、奈良興福寺創建1,300年記念事業で、東京と九州でのみ開催されたものである。
 この「阿修羅」展は「十大弟子像」と「阿修羅を含む八部衆」の内、現在興福寺に伝存する14体のうちの9体を揃えての展示である。

 興福寺は平城京遷都にともなって造営され、発願した藤原不比等の娘光明皇后が母の供養のため、興福寺内に西金堂を建てた。そのお堂の本尊を取り囲んだのが阿修羅像などの八部衆と十大弟子像なのだそうだ。
 この他、創建時に工事の無事と建物の安泰を願っての地中埋設工芸品の内、消失した中金堂跡から発掘された、金、銀、真珠、水晶などの「鎮壇具」の他、西金堂創建時から残る銅製の鉦「華原磐」や、四天王像も展示されていた。

 阿修羅像は三つの顔と6本の腕を持ち、内面の微妙な動きまでも描写しているといわれるこの象を360度全方位から見れるように設置されていた。
 九国博での殆どの展示会は人気があり、いつでも満員状況で、ゆっくり見れないことが多いが、今回は暑い最中のウイークデイでもあり、適度な込み具合でゆっくり鑑賞できた。しかし、
この阿修羅の表情は、見る人によって随分と色んな感じを受ける表情をしている。阿修羅だから本来憤怒の顔かと思ったのだが、必ずしもそうではない事が写真でお分かり頂けるだろう。

 ゆっくり見れて満足感を持って退館。直ぐ隣の大宰府天満宮にお参りして、名物「梅が枝餅」を買って帰った。

 
 

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2009年8月21日 (金)

古代史の謎24:小国家連合の萌芽か

 新潟県上越市の南西、矢代川に注ぐ青田川の扇状地には、玉造専門工場地帯である吹上遺跡(弥生中期)と、環濠集落窯蓋遺跡(弥生終末~古墳時代の国短期間)がある。

019_2  吹上遺跡ではヒスイを利用した勾玉、緑色凝灰岩や鉄石英を使った管玉などを大量に出土した。それも勾玉、管玉製作を夫々別の専門工場で作っていたことが判明した。即ち、これらを製品として他地域と交易していたようで、出土土器からは信州や東海、近畿、山陰地方からの搬入があったようで、交流、交易の広がりが伺える

 窯蓋遺跡は掘りに囲まれた環濠集落だが、ここは珍しく平地の環濠集落跡であり、直ぐ近くの高地性集落、斐太遺跡が終わる頃、活動を始めたようだ。ここでも玉造を行なってはいたようだが、信州及び他の各地の形式の土器類が出土した事と併せ、遺跡の直ぐ近くが川であった可能性が高く、川を利用しての物流拠点であったのではないかとの見方に注目を集めた。
 即ち、戦闘時代(倭国大乱)が終わり、新たに平和な小国(クニ)連合が進んだ証拠を残している(高地性集落⇒平地環濠集落への移行)と考えられる

 魏志倭人伝にある邪馬台国を中心に小国家群が連合国家へと纏まりつつある 時代であり、各小国(集落)間の交流が始まった状況が少しずつ判明しつつあるのだ。

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2009年8月19日 (水)

孫と野球観戦

2  横浜から孫兄弟(小学生)が夏休みで帰省している。王さんの監督時代からのホークスファンであり、昨夜は家族そろって対西武戦を見に行った
 ホークスは交流戦で優勝したものの、その後の対戦成績はよからず、首位日ハムと7ゲーム差の2位。特に打線に故障者が多く、得点力が落ちているからか、毎試合苦戦の連続だ。

 孫達は午前中から先ず2軍戦を観戦し、昼頃から、ホークスのグッズの店めぐりで帽子やユニホームを買い、時間をつぶして、4時からの入場待ち。

 爺婆は所定ゲート口で待合わせ、4時半に入場。試合前の練習から見る。定刻に始まった試合は、投手は西武がエース涌井。ソフトバンクが最近売り出しの高橋(秀)。これが思いもよらぬ好投をし、投手戦。西武がホークスの守備エラーがらみで3回に1点先取。ホークスは7回小久保のソロホームランで同点となりそのまま延長戦へ。

 9回から毎回サヨナラのチャンスを作りながら後一押しができず、12回同点で引き分け。今のホークスの戦力をよく著した試合となったが、終盤あわや勝つかと期待させながら球場が沸いたのに満足して、十時を回ってから球場を後にした

 朝の2軍戦から、本試合延長までの長時間、孫達も十分に満足して、疲れたか直ぐ就寝した厚い夏の一日だった。 

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2009年8月16日 (日)

古代史の謎23:伊都国の玉工房跡

 伊都国遺跡が糸島(伊都、志摩)半島に点在し、その王都跡と目される三雲・井原遺跡の北西4km(前原市)にある潤地頭給遺跡(弥生時代前期~古墳時代前期前半の複合遺跡)の昨年度発掘調査で、北九州最大規模の玉造工房遺跡(北九州では初めてのもの)が発掘され、現在も継続中である。

Photo  当遺跡は玉工房専用の遺跡であり、三雲・井原にあった伊都国の玉工房と見られる。工房敷地は南北180m東西80m、9600㎡以上あり工房33軒(方形の竪穴住居に円形の排水溝を伴っている)(写真参照)。砥石や玉の製作過程の石材が出土している。

 玉の材質は碧玉製管玉、水晶小玉・丸玉・切子玉、メノウ原石(勾玉)、鉄石英原石(管玉)、蛇紋岩製勾玉が出土した。これらの資料から管玉製作工程(写真参照)や水晶玉の製作工程が推定される。
 使われた数種の砥石や鉄鑿や鉄錐も出土している。

 尚、弥生前期~後期後半の居住域と墓地も別域で発掘されており、甕棺360基の他、木棺墓と見られもの及び副葬品装飾品なども発掘されている。
 又古墳時代中~後期の集落も見つかっており、竪穴住居跡5棟を発掘。金銅製剣、装身具の他、鍛冶工房の道具類も発見されている。

Photo_2  尚、王墓と見られる墳墓からの出土品が刀剣類がなく装飾品が多いことから、伊都国王は女王であったかとの推論もあるが謎である。又隣の奴国とは別に弥生前期~古墳時代後期まで継続存続した「クニ」と邪馬台国との関係はどうであったのだろうか。まだまだ謎だらけである。

 

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2009年8月14日 (金)

庭木剪定大苦難

 この夏、雨がよく降り庭木がよく育つ。昨年旱魃気味で、梅雨前にみどり摘みした松の木は9月になっても暑さと水不足で新芽が出ずに終わった。
 今年はこの失敗を繰返さぬよう、梅雨前にみどりを摘んだ(新芽を全部摘み取ること)。すると梅雨に芽がよくでて、新芽の剪定をせざるを得なくなった。即ち多すぎる芽を全てもぎ取り、伸びすぎは適度の長さに切り詰める。この作業を曇り勝ちで、時には雨に降られ、暑い中汗びっしょりでやっている。2日で1本がやっと終わった。あと二本は涼しくなってからだ。

 序に昨日、以前剪定したが、その後延びたモッコク、山茶花、槙などの徒長枝をチョコチョコと剪定した。そのときは気づかなかったが、夜風呂に入る頃から腕の数箇所にかゆみを感じたので、メンソレータムを塗布し寝た。
 ところが夜中物凄くむず痒くなり、見てみると毛虫刺されだあんなに懲りて今年こそはと、丹念に殺虫剤を散布し、毛虫がいないかどうか注意していたのに、毛虫という奴は大概、葉の裏側に居て、葉と同じ色をしているのでよく判らぬのだ。

 仕方なく今朝から以前に医院でもらったかゆみ止めの副腎皮質ホルモン剤を塗っているが、簡単にかゆみが引かない。いらいらしながらテレビで高校野球を眺めている。 

 どうも眼科とか皮膚科の治療は直ぐによくなる治療法がないのか、病院に行っても行かなくも変らないことが多いせいか、何処の病院も藪に思えて仕様がないなどと八つ当たりしている次第。

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2009年8月12日 (水)

古代史の謎22:「金印」は「奴国王」印か

Photo  福岡平野の南部に「安徳台」と称する台地がある。周辺2本の川に挟まれ、縁が急峻な崖で、上部は平らな台地である。日本書紀では「とどろきの丘」とあり、又平家滅亡時に海中に没した安徳帝の行宮があるので「安徳台」、又、江戸時代には「御所が原」と呼ばれた、見るからに曰くありげな所だ。

 この台地上に弥生中期~後期安徳台遺跡群が発見された。竪穴住居址130軒(500軒以上の見込み)。大型住居が多く、鋳型、勾玉、漢式鏃、鉄器類が続々出土している。甕棺墓が10基あり、中でも2基は豪華な副葬品に囲まれ1基は男性の被葬者で、管玉、勾玉、ガラス器、棺外に鉄剣、鉄戈がおかれ、後1基は女性で甕棺内部は朱に覆われ、遺骸に丹(に)が厚く堆積していた。
 規模の大きさと位置から「奴国王」の墓ではないかといわれている。

 福岡市西部から西南部にかけて、首長墓(鏡、剣、玉を副葬)と見られる遺跡が数個所発掘されているが、未だ「奴国」の中心地は比定されてない

 ところで、福岡の志賀島の浜辺で、天明4年(1784年)に農民により1個の金印が発見された。直ちに黒田藩の学者は、中国の「後漢書」にある金印ではないかと判断した(紀元57年に倭の奴国王が後漢に遣使し、光武帝から金印を賜ったと記載されている)。
 
現在この金印が本物であることは認められ、福岡博物館に所蔵されている。そしてこの金印が上記福岡近辺にあったとされる「奴国」の王宛てに贈られたものとされているが、これは間違いとする説も強く残っている。

1.先ずこの金印が「委奴国」王に贈られた時期と、魏志倭人伝に記載されている「奴国」が存在した時期には200年近いずれがある。従って、「後漢書」の「奴国」と「魏志倭人伝」の邪馬台国時代の「奴国」が同じ地域の同様な規模の「クニ」であったかどうかは全く疑問である。紀元147年から189年頃は倭国は大乱の時期である。この大乱の前後に亘って1つの「奴国」が存続したとは思えない。

2.次に、この金印の文字は「漢委奴国王」となっている。これは「かんのいどこくおう」としか読めないわけでである。即ち金印を賜った頃、邪馬台国を中心とした小国連合国「倭」は未だ存在せず、上記委奴国(イトコクか?)は漢の属国として存在していた。従って、金印は委奴国王(イトコク王=後の伊都国王に与えられたものと解釈すべしという論である。

3.更に印の材質の問題だが、中国は漢の時代より官印制度が整えられ、材質は玉、金、銀、銅の順位で官印が使われた。(民間では使ってない)。印は文書の簡札(木札)の結び目を封印する封泥に押した。玉は皇帝の印(玉璽)、金は王侯や周辺の夷蛮の国王などに使われたので、当時の「奴国」は日本を代表した中国の属国の一つだったといえる。

 以上からこの安徳台遺跡は日本の中心国「委奴国」の可能性が高いが、この辺りの解明が進めば「邪馬台国」発祥と存在地が見えてくるかもしれない。

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2009年8月10日 (月)

デジテレが来た

 アナログ放送が終わ迄は、今のテレビで見ようと思って、現在のデジタル放送には無関心だった。
 ところがである。突然今のテレビが故障した。通常電源スイッチは入れっぱなしで、受像スイッチをON-OFFしている。だが、此のスイッチを入れてもスイッチが入らなくなった。何度かSW-onを繰り返し漸く入るという始末。テレビも老化した訳である。

 仕方なく折込広告を見て2,3店舗を見て回ろうかと、先ずは近所の大型スーパーに行ってみた。すると今週からお盆まで、広告価格より更に値引きしますという。その一声で直に買うかという気持ちになってしまったのは店員の腕か。元々他店より安かったが・・・。

 その4日後、我家にもデジタルTVがやって来た。据付、設定等は搬入業者がテキパキとやり、アンテナも今ので十分とのお墨付きを貰い、ビデオレコーダーは今のを接続してくれた。後操作法の簡単な説明。詳しいことは「取説」をご覧になって下さいと言って帰っていった。

 ここで、又々ところがである。問題はビデオの再生と録画の設定操作である。「取説」には何でも書いてあると思ったのが間違い。古いレコーダーの録画・再生の設定法などは何処にも書いてない。(TV側での設定が必要なようなことが書いてある)。
 暗中模索のうち、再生は外部入力接点6つのうちの一つが適合することが判り何とか出来る様にはなった。しかし、録画は「取説」をどのように読んでも訳がわからない。(勿論新型デジタルレコーダーの設定法は詳しく書いてあるが)。
 で、些か冒険をやろうと、再生接点に接続したまま、レコーダーのリモコンで(レコーダーに対し)録画条件の入力操作をやって見た。そしたら何のことはない。従来のと変らぬように、テレビに設定画面が表示されて、録画設定が出来た結果、録画完了後に再生し、見ることが出来た

 バンザイ!といいたいところだが、知識のある方には当たり前のことであろう。しかし、私レベルの使用者も多いのではないか。それならば、メーカーの消費者への配慮が足りないのでないかと腹立たしくも思った次第の1日だった。

  

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2009年8月 8日 (土)

古代史の謎21:渡来人との交流、混合

018  熊本平野南部の白川流域にある八の坪遺跡(弥生前期・中期)は住居と墓、青銅器工房がワンセットに纏って発見された。工房では鋳型の他に銅片、銅滓、送風管も見つかり、又朝鮮半島由来の牛角取手付き壷形土器も出土したので、渡来系人のムラと判った。

 そして、川向こうの墓からは人骨が多数出土し、その埋葬姿勢が北九州の土着系住民と同じスタイルでありながら、住居内には半島系と地元の土器が混じって出土した。これは渡来系人と土着人が同居していたことを示すとして注目されたのである。

 尚、鋳型そのもは有明一帯の佐賀平野で見つかっている。このことから、有明海を往来した青銅生産が想像される。
 八の坪、白藤遺跡のある霊峰金峰山の麓一帯は縄文人が住み着いた生活領域であったところへ、渡来人が入り込み、混合融和して生活したと想定される

(写真は上から、フイゴの送風管2点1対、小型銅鐸鋳型、銅戈鋳型2点、青銅器鋳型)

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2009年8月 6日 (木)

「原爆の日」

 今日は「原爆の日」である。この日に因んでか、ここんところ核問題に関していろんな議論が多い。オバマ大統領の核政策が発表され、又国内では選挙戦で自民対民主の論議、或いは選挙後の対米政策で、核に対する日本の姿勢がどう変るか等々。

 そんな中、先日の毎日新聞に、原爆投下爆撃機「エノラ・ゲイ」の乗組員生存者2人の内の1人モリス・ジェブソン氏とのインタビュー記事が載った。その内容に吃驚したというかショックを受けた。

 氏は原爆投下に関し、「投下した直後、大きな衝撃と共にきのこ雲が上がり、これで多くの命が奪われ、多くの物が破壊されたことはうれしいことではなかった」しかし「この時期、米国の本土上陸作戦が近づいており、上陸すれば、米兵、日本兵及び一般市民の多くが犠牲になるのは明白だった」とし、「戦争の早期終結のためだった」原爆使用を正当化した。又、最近のオバマ大統領の「唯一の核使用国としての道義的責任がある」との発言に対してこれを批判した

 原爆投下に直接関わったことは、当時原爆に対する脅威は不明だったことなどあり、勿論戦闘行為であることもあり、不可避であったことは仕方ないが、それ以来65年目の今日、未だに後遺症に悩んでいる被爆者の苦しみや怒りに対し、余りにも鈍感ではないのか

 

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2009年8月 3日 (月)

古代史の謎20:縄文から弥生の転換時期

 今回より弥生時代に入る。縄文時代と弥生時代は土器の文様の変化により区分されてきたが、遺跡発掘、考古学の進歩により、これまでの生活文化による時代区分では、全体的に前時代へ遡り、且明確な区分が付け難くなっているが、一応従来の年代にての区分を適用する。

0024jpg  雑餉隈遺跡(福岡市南部)では、木棺墓(弥生前期)の発掘で、壷形土器と一緒に、有柄式磨製石剣が三本、完全な形で出土した。
 石剣は銅剣の代替品といわれるが、中国の遼東半島から朝鮮半島に分布するもので、北部九州では希少価値の高い頃のものであり、弥生の到来を知る上で貴重なものである。

 石剣が日本に渡るのは、水田稲作が始まった頃で、金属器の普及により消えて行ったことがわかっているが、この石剣が中国で作られた時期は、従来の弥生開始時期の通説より早く、縄文期の転換を促した大陸渡来人の動きと共に、弥生時代の開始時期をめぐる論争も活発になろう。

 そして、大陸文化との交流により影響を受けつつ、日本独特の弥生文化を花開かせてゆく過程も徐々に解明されるであろう。

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2009年8月 1日 (土)

景気はデフレスパイラル?

 最近の日銀短観は「景気は下げ止まりつつある」から「下げ止まっている」に景気判断を2ヶ月連続で引上げている。株価も今週末は1万円台を回復主要8銀行グループの4-6月期連結決算はみずほ以外は黒字決算証券大手5社の4-6月期決算も全社が黒字決算となった。

 やれやれやっと明かりが見えてきたかと思いきや、家電や食品、日用品など幅広い製品で価格下落が進んでいるという。6月の全国消費者物価指数(05年100)は前年同月比1.7%下落の100.3%で4ヶ月連続の下落だという。下落率は5月のー1.1%に続き、過去最大を2ヶ月連続更新失業率も5.4%と過去最悪(5.5%)に迫っている

 雇用情勢の悪化が更なる消費不振を呼び、値下げラッシュが企業を疲弊させ、一段の景気悪化を招くデフレの悪循環に陥る懸念があるという。

 消費者である我々は価格が下がれば、そんないい事無いと喜ぶべきだが、昨秋以来の過剰生産と消費不振で需要不足が45兆円膨らんでいる。有効求人倍率が0.43倍となり失業率が悪化する環境では輸出による景気回復が頼みの綱というが、海外の景気回復も思わしくない現状では、先行きどうなるか心配である。

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