« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »

2009年5月

2009年5月31日 (日)

古代史の謎4:巨岩・巨樹信仰

 欧州の考古学者が「古代人は大地のエネルギーを感得し、それを利用する文化を築いた」との仮説を、20世紀初頭に提唱してるそうだ。
 古来より、大地の磁場や水源から、ある種のエネルギーが発生し、動植物に活性を与えると考えられたと言うものである。

0022  勿論。日本でも例外ではない。元々、古代人は自然の中で生活し、人智の及ばぬ自然の力、脅威に怖れを抱き、且つ上記地球のもつ磁力、磁場の不可思議な力を「霊力」のように感得すれば、当然そこに「神」の存在を信じたに違いない。

 現在毎日新聞日曜版には「聖地日和(神々の場所)」が連載され、現在も信仰が続いている各地の御嶽(ウタキ)や磐座(イワクラ)が紹介されている。古来、社殿が作られる前から日本の神様は巨樹や巨岩に降りて来るとの信仰があり、現在は神社にも社殿があるものの、この思想が連綿と続き、どこの神社にも必ず境内に「御神木」があり、注連縄が廻してある筈だ。

 また、磐座と言われる場所にも、後世には社殿が作られたところが多い。写真は太古からの信仰を伝える京都の「松尾大社」の磐座で、本殿は嵐山の頂上と苔寺との中間付近に造られているが、御神体であるこの磐座は嵐山の頂上付近にある。茨城県日立市にある、神話にも出てくる大甕(オオミカミ)神社の社殿の土台になっている巨岩も磐座だそうである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年5月29日 (金)

松のみどり摘み

 今日わが庭にある松の「みどり摘み」を始めた(どうでもいいような松三本)。この時期九州では早すぎるが、昨年、一昨年と九州流のやり方でやった結果、梅雨明けからの異常高気温と、雨が少なかったことで、盆前の新芽が出なかったことによる。

 東京を基準に松の手入れ法が書籍等には乗っているが、九州でこれをやると、盆前に新芽が大きく伸び過ぎるので、正月を照準に綺麗な松に仕上げるには難しいと言うか余計な手間をかけねばならない。
 したがって九州流では、梅雨明けに今年の新芽を根本から全部摘み取る。すると、梅雨明けから9月にかけて新しい芽が出るので、これをみどり摘みの要領で芽摘みして、11月ごろ古葉落しをやれば、正月に綺麗になるのである

 ところが、昨年、1昨年共に猛暑の夏となり、夏場に全然新芽が出なかった。結果秋に出た新芽が翌春引き続き新芽となるが殆ど伸びてない。そのため松の勢いが消えてしまった。故に、今年も猛暑になるとの前提で、夏場の萌芽はないと考え、梅雨明けには新芽を出揃わせようと考えた次第。

 そこでこの時期、今年の新芽を全部摘み取った次第。そして今後梅雨時期に新たに出るであろう新芽を上手く摘んで、秋口には綺麗な新芽を揃えようとの魂胆である

 このやり方、九州流、温暖化猛暑夏期対策新松の手入れ法である。結果がどうなるか、秋口にこのブログで報告する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月28日 (木)

古代史の謎3:縄文時代の始まりは?

 これまで縄文時代の始まりは約10,000年前ごろ、第4寒氷期(氷河期)の終わりに地球温暖化により人類の生活様式が変化し始め、石器の他に土器類が出現し始めた頃とされてきた。
 ところが 近年、以前の定説より3~5,000年遡った16,000年前ごろ(旧石器時代の末期)から縄文期とすべしとの論が出てきた。

0022_2  そもそも旧石器時代と縄文時代との仕切りは何によるのか。学会では次ぎの基準によっていた。即ち縄文文化成立の4条件である。
①温暖化による落葉樹林の出現 ②木の実などを煮炊きする土器の発明 ③魚労の始まり ④定住生活の成立

 ところが平成11年青森県大山元遺跡出土の無紋土器の年代測定をしたところ、放射性炭素年代測定法の結果に、他のデータと照合し補正した「較正年代」では凡そ1万6,000年前であるという結果が出て、縄文時代が3,000年ほど遡ることが判った。
 この結果縄文時代の起源を何時にするか問題となっている。上記4条件が揃っていなくても、土器の出現が16,000年前であることは否定できず、「縄文時代」と言うかどうかは別にして、間違いなく従来の旧石器時代末期といわれた時代は、「新石器時代」に修正されねばならなくなった訳である。が、未だこの論議には決着がついていない。

 尚、縄文文化は日本列島全域にわたり、且同時的に広がっている。北海道、東北はロシアとの交流で、中部から九州までは中国、朝鮮半島との交流で、南西諸島は台湾、フィリッピンからの黒潮に乗っての伝播などで、周辺地域の影響を受けての日本文化が開花し始めた時期である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月25日 (月)

薫風を歩む

 日差しは強いが、風は涼しくとても気持ちがいいので、川べりを散策した。写真は多々良川河畔。
003  この川にはカモ、サギのほか、河口が近いのでカモメ、ウミネコなどがよく来る。これら野鳥の写真が撮れればとカメラを持参したが、カモ以外は干潮時の川底の虫や小魚をついばみに来るので、干潮でなかった今日はカモしか居なかった。
 ところがこのカモ愛想が悪く、カメラ向けるとさっさと逃げてしまった。

 この「多々良」の地名は「踏鞴(タタラ)を踏む」のタタラ(大きな鞴(フイゴ))で、製鉄の用具が地名に転じたものであり、出雲の国、越の国にもある地名であり、夫々その昔(弥生ー古墳時代)、半島から来た製鉄技能集団が鉄を作ったところから来ている。

 又この辺りが南朝を制した足利尊氏が九州に攻め込み、菊池武敏を討った「多々良浜の戦い」があった所である。更に戦国時代、立花城(福岡市東部)によった大友宗麟と、豊前豊後、筑前筑後をとらんとした毛利元就との一大決戦がこの川を挟んで行われた「多々良川決戦」の場所でもある。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月23日 (土)

古代史の謎2:象を食った野尻湖人

 旧石器時代中期(4万8,000~3万3,000年前)時代になると、発掘された遺跡数も増えてくるが、この長野県野尻湖の湖底遺跡はやや特異な遺跡で有名である。
0042  昭和23年(1948年)、当地の加藤松之助氏(旅館経営)が、湖底でナウマンゾウの臼歯を発見し、36年以降毎年発掘調査が行われた。

 調査開始数年後、ナウマンゾウやオオツノジカの化石が発見された地層で、骨製の尖頭器、ナイフ形の石器が出土したため、野尻湖の旧石器人がナウマンゾウやオオツノジカを追って活躍したことが立証された。

 その後の発掘で、皮剥ぎ用の石器の他、骨製ナイフ、骨製鉈など骨製器が多いことに特徴がある。が同時に、石を砕いた「礫(レキ)石器」も採取され、野尻湖人は石器の発明者とも言われている。

0023  ナウマンゾウは2万5,000年前頃から日本列島からは消えている。因みにこの象1頭は当時の50人の1ヶ月分の食料だそうだ。捕獲法は落とし穴などの生捕りが主だったようだが、野尻湖遺跡は石器より骨製器が圧倒的に多く、且骨遺跡の92%を象の骨が占めているそうで、野尻湖に象を追い込んでの捕獲だったせいにも因ると思われる。

 尚、この頃主たる食料は植物性のものと見られ、野尻湖遺跡からの出土にも、チョウセンゴヨウ(マツ科)、オニグルミ、ツノハシバミの種子があり、これらを食べたと推定される。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月21日 (木)

山法師が咲いた!

0022  写真は通りがかりの新興宅地での玄関先に咲いている「山法師」の花である。
山帽子が咲いたといって騒ぐほどのことは、本来はない。
 しかし、ここの宅地は5、6年前に完成したもので、何時もウオーキング゙の途中、見ているので知っているが、どの家も今様に和洋折衷型の玄関先で「山帽子」が門のそばに植えてある。しかし、完成後、殆ど花が咲いたのを見たことがない。

 ところがである、何故か今年はどの家も、写真のように綺麗に花をつけた。我家の山帽子も最初の2年ほどはちらほら咲いたが、以降全然花をつけず葉が茂るばかりなので、大幅に切り詰めた結果、当然咲いていない。だから、山帽子は咲きにくいものだときめていたが、今年は違うようだ。

 そう言えば、今年は山野の花木や、園芸用の庭先の草花がよく咲いている。
 今年は今まで見たことも無い花をつけた木も見た。多分、気象条件が適合した成果と思うが、昨冬が厳寒の冬であり、病害虫が死滅したせいではないかとも思っている。

 余りに珍しく感激したのでブログに掲載した次第である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月18日 (月)

古代史の謎1:最古の日本人

(序)古代史シリーズ第2編「古代史の謎」を投稿します。今度は古代史の中のトピックを追って、より歴史的事実に迫ってみることにします。

 できる限り、年代順に話題を取上げようと思うので、初回は最古の日本人、即ちこの日本列島には何時頃から人が住んでいるのかを見ます。
0012  初めに人類の発生と日本への渡来を見ると、
 世界最古の人類は約500万年前、東アフリカで誕生した「猿人」だ。
 250-30万年前の間は旧石器時代前期といわれ、猿人が「原人」に進化して、ヨーロッパ、アジア大陸、日本列島にも分布した。
 30-3~4万年前の間は旧石器時代中期といわれ、原人は旧人のホモサピエンス(人間)となる。
 更にこれより1万年前までを旧石器時代後期と称し、人間は新型ホモサピエンスとなる。
 この間氷河期が4回来ており、そのたび人類は進化して、猿人から人間までに変化していったと思われる。

 「原人」が氷河期において陸続きとなった日本に渡来するチャンスは百万年前、43万年前、30数万年前、20数万年前の4回あったという。5万年前からは船による渡海が可能になっていたようだ。

 日本での一番古い人類の遺跡は「明石原人」である。昭和6年(1931年)アマチュア研究者直良信夫氏が兵庫県明石市で腰骨の化石を発見、当時誰も認めなかったが、戦後東京帝大の長谷部言人教授が鑑定し、「明石原人」と名づけた。
 一部には否定説もあったが、1997年、明石市で12-5万年前の石斧も見つかり、明石原人の裏づけにもなった。

 0072 長崎県入口遺跡は日本最古の可能性がある中期旧石器時代(9万年前)の石器類が発掘された。又岩手県の金取遺跡が地域研究者によって各種石器類が発見された。

 確実に実在したとされる岩宿遺跡では旧石器時代の黒耀石等の石器類が相沢忠洋によって発見され、3万5000年前のものと鑑定された。岩宿遺跡からは磨製石斧も発見され、縄文文化に近い高度の文化を持っていたと推定された。

 以上遺跡から見る限り、日本列島にも12、3万年前から人類が生息していたと考えてもおかしくはない。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年5月17日 (日)

月齢と人の感情

 以前、月は地球上の生物に大きく影響して居るとこのブログで書いた。植物の芽吹きや開花、結実など月齢に影響され、人間も出産、死亡の時刻は潮の満ち干き関係している。
  今回はそればかりでなく、月齢は人の精神状態に大きく影響しているという話。
月齢は上図のように、新月(暗闇)から上弦の月(半月)、満月。続いて欠け始め、下弦のCocolog_oekaki_2009_05_17_17_54 月(半月)を経て、新月にいたる。この期間が平均して29.5日であり、12ヶ月354日が1年である。これが月を基準にした太陽太陰暦即ち旧暦である。

この上弦、下弦の頃は太陽に向かって、月が地球の横にあり(地球を基点に太陽と月が直角方向)、引力が打ち消しあって弱く、人間の気にゆるみが生じ勝ちになるという。
 一方、満月や新月の頃は太陽、地球、月が一直線上に並び、バイオリズムが活発となり、大事故や凶悪犯罪が集中するという。

 この説は月と人間の精神状態を研究したアーノルド・リーバー著「月の魔力」に刺激された、元警察勤務の黒木月光氏の犯罪と月齢の関係を研究した「満月と魔力」に著述している。

 今日は旧暦4月24日、幕末「寺田屋騒動」があった日だが、月齢は下弦の月で、月の出は真夜中。薩摩藩の穏健派と過激派の争いで過激派の気が緩んで居たときの事件だとか。
 一方、坂本竜馬が暗殺されたは旧暦11月15日。まさに満月の夜であったという。竜馬は生まれも11月15日で、満月に始まり、満月に終わった32年の短い人生であった。 

この記事は毎日新聞日曜版「旧暦どっぷり」を参照しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月14日 (木)

新緑から深緑へ

0142_2  新緑に覆われた野山も徐々に緑が濃くなり、深緑へ向かっている。その中で所々、場所によっては一帯が、黄緑のままの所が多い。近寄ってみると花をつけた楠(又は樟)の木である。
 樟の葉は未だ黄緑であるが、花が薄黄緑で、それも一面に花をつけた状態になっているので、近寄ってみると写真のようであるが、少しはなれて見ると、こんもりと茂って全体が黄緑の状態となっている。

 福岡には確かに楠が多く、神社仏閣には殆ど楠が植えてあり、或いは学校や公共の建物、公園などには楠が多い。それも大木である。多分虫がつかないせいであろう。そのせいか、樟(楠)は福岡市の木に指定されている。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年5月10日 (日)

句をよむ:桜(花)の句、秀句

 タイトルの「句をよむ」は読む(鑑賞)と詠む(句作)を兼ねています。鑑賞や俳句の話ばかりでなく、時には小生の駄作を臆面もなく記載する予定である。ご批評、ご指導を乞う。

桜(花)の句Ⅱ
 前回に続き、今週も毎日俳壇に掲載された桜の句を選出した。流石に、時期経過で「落花」の言葉が増えてきた。(毎日俳壇:一般の投句を4人の俳人が選句・掲載)

朝桜早出の足を緩めけり(小林紀彦)。 キャンバスに離合集散飛花落花(岩見尚夫)
川と川音なく出会ふ落花かな(山川輝雄)。 浮かぬ顔一つ混じりし花筵(北埜裕巳)
桜咲く顔にふるるあたりより(石田伸子)。  提灯の連なりて花待つばかり(矢端桃園)
学校の演習林の残花かな(六本木義人)。 中庭の井戸は使わず八重桜(鈴木一郎)
伊賀と伊勢分かつ峠の大桜(青山勇二)。  正座して横座りして花筵(梶原かつを)
船窓に貼り付いてゐる落花かな(首藤勝二)。

勝手に選んだ秀句(私が投稿句の中から自分の好みで選んだ句)
四阿(あづまや)にひねもす降りぬ春の雨(久野茂樹)
 菜種梅雨の頃のことか。四阿とは東国風のひなびた家。或いは壁がなく柱だけの建物で屋根を四方に葺き降ろした庭園などの休憩所のことも言うがここでは前者か。

薬師寺の塔は二つや青嵐(木津和典)
 典型的な写生句。初心者には写生句を薦められる。青嵐は青葉を吹き渡る風のこと。
すっきりした気持ちのいい句である。

また次の囀りに入る七曲り(田中翔子)
 七曲はジグザグに上る峠であろう。登ってってゆくに従い、小鳥の囀りが違って来るのか。

囀りや樟の大樹は空塞ぎ(北野恵美子)
 今は樟が若葉を出して花が咲き茂りだした頃である。密に茂るので、空も見通せないほどとなる。きれいな若葉をつい見上げる頃で、当然5月の空を見上げるが空は見えないという。

 最後に小生の今日の習作を一句
飛行雲空きり裂きて若葉萌ゆ         
 5月の紺碧の空を真っ白な飛行雲が一直線に伸びてゆく。まるで、空を真っ二つに断ち切るように。目を落とすと若緑がそよ風に揺れていた。
 修正句:若葉萌え空ひき裂きし飛行雲  とした。

 

   

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 8日 (金)

GWは庭仕事

 ゴールデンウィークは、高速料金1,000円が効いて、高速道路は大渋滞だったそうな。若い時は渋滞も苦にせずあちこち行楽地やどんたくに出かけたものだ。
 しかし、最近は人出が多い時はかえって避けるようになり、又勤め人の時はGWしか、時間がなかったので、専ら庭仕事をする癖がついている。

0012  尤も、この時期やらねばならぬ庭仕事は沢山ある。山茶花、椿、についでつつじなど花木は花が終わったら直ぐ剪定せねばならない。来年の花芽ができるから、後で伐ると、花芽を切る事になり、花が少なくなるからだ。当然昨年の花後に切った金木犀や紫陽花等も徒長枝が出るので花芽を落さぬ範囲で再剪定せねばならない。

 又鉢物(花や松盆栽など)は本来4月以前にやるべき、鉢や土変えのための植え替えなども、小生は毎年この5月連休にやる癖がついているので、今時分になってからやる。

 これ以上に厄介なのが芝生。未だ芝生の芽は出始めだが、雑草が芝生に混じって生える。ひと雨ごとにぐんぐん伸びるので、この草抜きが手間暇掛かる上、腰が痛くなる。

 この後は梅雨にかけ、松の木のみどり(若芽)摘み、槙の木(生垣もある)の剪定など庭仕事は続くが、何はともあれ5月初めにやるべき庭仕事が一段落したところである。

 写真は昨年伸びた新葉を落し、根切りを済ませ、土替えを終わった「クジャクサボテン」の鉢である。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月 6日 (水)

古事記をよむ(23)

女帝誕生
(推古天皇)
《「古事記」あらすじ》 最終回
 『継体天皇の御子、27代・安閑天皇(広国押建金日命)は勾の金箸宮で天下を治めた。しかし、御子が居らず、弟が28代・宣化天皇となり檜坰
(ひのくま)の廬入野宮で統治した。御子は5柱ある。ついで弟が29代・欽明天皇となり、師木島の大宮で統治した。この天皇には25柱の王がある。御子が30代・敏達天皇、その弟が31代・用明天皇となる。この天皇には厩戸豊聡耳命(聖徳太子)、久米王、植栗王、茨田王等の御子がある。
0083  用明天皇の異母弟が32代・崇俊天皇となり、敏達天皇の大后が33代・推古天皇となり、37年間小治田宮で天下を治めた。』

 古事記の各天皇記で物語が記載されているのは顕宗天皇までで、仁賢天皇から推古天皇までの10代は基本的に系譜記事だけになる。これは一つには古事記には神話的な内容のみを記すと言う編集方針が在ったからだとも言われている。

 女帝誕生は緊急時の対応であったろう。崇俊天皇が暗殺されると言う事態で、崇俊の甥に当たり、用明の子である聖徳太子と推古天皇の子竹田皇子が天皇候補となるが、竹田皇子が当時権力を振るっていた蘇我系でなかったのに対し、聖徳太子が蘇我系であったことなどから決まらず、推古が緊急的に女帝となったようだ。古事記はここで終わる。

聖徳太子は虚像か
 
最後に聖徳太子について最近の説を紹介しておこう。
一般的に聖徳太子は推古天皇の摂政に任じられ推古元年に皇太子に指名された。即ち天皇の補佐役として国内諸制度の整備を行い、冠位十二階を定めたといわれて来たが、近年この制度整備は実際には中国や朝鮮諸国の制度を見習ったもので、その推進者も蘇我氏であったとする説が出てきた。
 又、十七条の憲法制定は法的な面と道徳的な面から中央集権国家体制の確立をうたっており、冠位十二階と共に新体制の両輪となっている。そのよりどころは儒教と仏教が基本的な柱になっているのである。しかし、これも実は後世の創作であるとの説も出てきている。
 尚、厩戸皇子と聖徳太子は別人であるとする説も根強く残っており、多分後世の歴史書から『聖徳太子』の名は消えるであろうとも言われている。
 絶頂期に在った蘇我一族が下り坂に差し掛かり始めた時期であり、太子は急死したことになっているが、暗殺説もある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 4日 (月)

桜(花)の句

Photo  桜は今青森、函館が満開とか、GWによく札幌に出かけたが、札幌は今頃が咲き始めで、これから「蝦夷ザクラ」(山桜に少し似て、やや薄茶の葉が出るが花は大きくきれいだ)が咲き始める。
 何故今頃桜か。今日は俳句に関して記載するためである。新聞の投稿句を紹介しようとして今まで待っていたので、季節外れに近い時期となった訳だ。

 只今俳句の勉強中で余り詳しくないが『桜』の花ほどきれいで、儚いものは無い。多分沢山の俳句があるだろうと思っていたが、桜を直接詠ったものは数少ない。 何故なのか。私の個人的な見解だが、桜はきれいだ。桜に対する思いも殆ど同じだ、だから、俳句にするには『桜』或いは『花』一字で桜のことは全部終わりである。よって、桜の季節として、季語に使われることは多くても、花そのものを主題にしたのは面白くないのか。或いは難しいのかと思う。

  前書きが長くなったが、前々週と前週の毎日俳壇に一般投稿者から選句された中で『桜』を入れた句を紹介すると、
前々週:(4月25日)
添え木より低き若木の初ざくら(松島照子)。みちのくの奥ほど濃くて山桜(柴山芳隆)
上手く年とるも一芸花の宴(首藤鞠子)。夜桜や学びの庭のしづもりて(枝沢聖文)
ここからは胸突き八丁山桜(石田武美)。昼の月ある花陰に鍬あらふ(矢野久造)
前週:(5月3日)
桜蘂(しべ)降りて急がせる老いの坂(松山蕗州)。坊守にとめどなく散る桜かな(松島大地)
花吹雪別ればかりを重ねきし(坪内勉)。 花びらの語るがごとく散りにけり(近藤康紀)
日曜の時を止めたる桜かな(海老原順子)。空の青残りてゐたる夕桜(渡部弘道)
夜に入りて風の荒める花の雨(吉川勉)。 自転車を押して坂道花の下(枝沢聖文)
一年は短し花の下に逢ひ(坂元二男)。 止まらんとしては流るる花筏(吉岡喜一郎)
以上毎週40句ほど選句された中の桜を詠んだものです。意外に少ないと思います。

 因みに、桜を詠った有名句を紹介しておく。
山又山 山桜又山桜 (阿波野青畝)
空をゆく 一かたまりの 花吹雪 (高野素十)
ちるさくら 海あおければ 海へちる (高屋窓秋)
花筏 やぶって 鳰(にお)の 顔のぞく (飴山實)
一片の落花のあとの夕桜 (深見けん二)  などがある。

 毎日俳壇の選句記載は新聞社の了解を得ています。尚、写真は福岡城内の桜。
又、小生のホームページ(http://hihabe.com)の「俳句を楽しもう」は夏季号に更新しております。一度ご訪問下さい。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 2日 (土)

古事記を読む(22)

雄略天皇の後継と淡海国の新皇継体
《「古事記」あらまし》
 『雄略天皇の御子22代・清寧天皇(白髪大倭根子命)は磐余(桜井市)の宮で統治した。この天皇には御子が無く、雄略天皇に殺害された市辺之忍歯別王の妹、飯豊王
(いいとよのみこ)が、葛城の角刺宮で臨時に即位し、政を代行した。
 或時、播磨の国の者の新築祝いで二人の青年が舞いをした。聞くと、市辺之忍歯別王の子であるという。飯豊王は喜び、実権を握っていた志毘臣を二人が討ち、弟の袁祁命が23代・顕宗天皇に、兄の意祁命が24代・仁賢天皇に即位した。

2_0023   仁賢天皇の御子は25代・武烈天皇(小長谷若雀命)で、長谷の列木宮で統治した。後継の太子が無く、応神天皇の5世の孫、袁本杼(おほど)命を近江国に見つけだし、26代・継体天皇とした。
 継体天皇の御子は19王あったがその内3王が27代・安閑天皇、28代・宣化天皇、29代・欽明天皇に即位した。

 継体天皇の御世、九州では筑紫国の国造磐井の反乱が起こったが、物部の麁鹿火(あらかひ)の軍を派遣し討伐した。』

 武烈天皇は日本書紀では残虐な天皇とされているが、古事記ではそのような記載は無い。しかし、武烈で王統が切れるので、わざと暴虐性が創作されたものと見られる。

 王朝交代説によっても、武烈天皇で終わった河内王朝に代わり、継体天皇は越国出身で、近江に身を寄せていたが、畿内でなく、応神の5世の孫というので前皇統とは血縁も無いといえる。即位も河内の樟葉宮で行い、山背へ遷都した事や、即位20年かけて大和の磐余に入っているなど明らかに従来と異なる行動をしていることも交代説を補強し有力な学説となっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »