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2009年4月

2009年4月29日 (水)

自然の摂理を壊している?

 新型インフルエンザと称する豚インフルエンザの人間への感染、及びそれによるメキシコにおける170名近い感染患者。それと疑わしきインフルエンザの世界各地への伝染拡大と、今日のテレビは見通し全くゼロの恐怖ニュースを流し続けている。

 一方、がん研究の最近の成果から解かる癌発生の話を見ると、人間の体の細胞は1日800億もの細胞が死に、当然それに見合う細胞が誕生しているそうだ。その新誕生細胞のDNAは元の細胞のDNAをコピーするが、そのときコピーミスを起こす。それが所謂突然変異だそうである。
 ところがこの突然変異が実は、人類の進化をさせてきた原動力だから、これが無ければいけない。そこでその際発生する出来損ないの細胞は、不要の細胞を消す役割の物質で消去されて必要なものが残存してきた。

0012_2  しかし時には変なものが消えずにのこる。それが癌となる、という。同様の記事を見たことがある。それによると、人間には毎日相当のがん細胞が発生するがその殆どは完全死滅する。しかし、時に生き残り病原性の癌となるとあった。発生するがん細胞は1日5,000個あるが、これを抑制する免疫細胞が防いでいるという。

 前記インフルエンザのウイルスやがん細胞など、人類が今一番手をこまねいているのが、原始生物である単細胞生物なのである。生物的進化を遂げていない単細胞生物に、物凄く進化を遂げた人体が一番弱い相手であるというのはどう言うことなのか。

 自然の摂理を超えた開発や変化を推し進めた人類への天罰が下るときが来たのではないか。SFの噺ではない。

 今日の写真はこの話と関係なく、近頃珍しいクローバーが群生していたので摂ったものだ。

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2009年4月26日 (日)

古事記を読む(21)

倭の五王
《「古事記」あらすじ》これより古事記下巻に入る
 『第16代・仁徳天皇は難波に高津宮をおいた。17代・履中、18代・反正、19代・允恭天皇など男王5柱と女王1柱をもうけた。これらの天皇の御世は民を慈しみ安定して、特に仁徳の御世は善政が行われ聖帝と称された。
 民の竃に煙が立つか否かで民の暮らしを測り、税を軽減した話は有名だ。

0031_2  19代・允恭天皇は氏姓の制を整備したが、没後後継問題が乱れ20代・安康天皇は甥に討たれ、弟の大刃長谷王(おおはつせのみこ)が即位し、21代・雄略天皇となって、長谷(桜井市付近)に朝倉宮をおいた。』

 5世紀の東アジヤは激動の世紀であったが、倭国は宋に使節を派遣しており、宋書によれば、倭王讃(履中)は425年、珍(反正?)は438年、済(允恭)は443年、451年、興(安康)は462年、武(雄略)は478年に夫々使節を派遣し、安東将軍などに任ぜられている。
 これが所謂、倭の五王であるが、このうち済、興、武は記紀共に允恭、安康、雄略と一致しているが、讃は応神、仁徳、履中のいずれか、又珍は反正、仁徳のいずれかとされ、未だ確定していないが、5王が実在したことは間違いない。

 倭の五王の内最後の武が中国に奉った上表文では、倭国内の広範囲を統治し、政権勢力が拡大したことを示している。これの具体的証拠が、雄略(武)天皇の倭名は大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)であるが、この「ワカタケ」の銘文を持った刀剣が埼玉県の稲荷山古墳から出土したことである。
 この発見により、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀の銘文も獲加支多歯(わかたける)が入っていることから、雄略朝では既に東国から九州まで勢力が及んでいたとされる。

00210_2  雄略天皇は葛城において、一言主神に出会った。驚いて刀や衣服を献上し、帰る際には見送られたとの伝承があるが、これは雄略には霊力があったこと及び当時勢力を張っていた葛城一族とも和解し、支配下に入れたことを指すと言う。

 写真の武内宿禰は成務、仲哀、応神、仁徳の4代の天皇に大臣(おおおみ)として仕え、270歳まで生きたとされる伝説上の人物である。
 福岡・香椎宮境内には武内宿禰神社があり、写真の像が立っていて、近所には宿禰の屋敷跡と称せられるところもある。 

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2009年4月24日 (金)

萌ゆる若葉・・・どんたく間近

Photo  福岡ではもうツツジも終わりに近い。それでも少し遅いところでは写真のように満開状態であるが、我家のつつじはもう散ってしまった。

 ツツジが終われば藤が咲くの普通だが、今年の藤は早く咲き、もう完全に散ってしまっている。だが、樹々の新緑が柔らかい感じで辺りを包んでいる。この新緑がいい。

Photo_4  5月連休になれば博多では7月の山笠と並んで、2大祭りの一つ「どんたく」が始まる。2日の前夜祭から3日、4日の人出は300万といわれ、パレードや花電車(現在は花自動車)で博多は祭り一色となる。博多っ子は祭り好きなんです。

  それにしても今年は長いところは16連休とか。この不景気な時期どうして過ごすのかな?

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2009年4月22日 (水)

古事記を読む(20)

神功皇后の新羅進攻
(成務・仲哀・応神天皇)
《「古事記」あらすじ》
 『13代・成務天皇
(わかたらしひこ)は武内宿禰を大臣(おおおみ)とし、志賀の高穴穂宮で天下を治め、国々の国造(くにのみゃっこ)国の境界、県主を定めた。

0023  倭建命の御子、14代・仲哀天皇(たらしなかつひこは熊曾国を征討するため、筑紫の香椎宮を拠点にし、天下を治めた。そのとき、神功皇后は神憑りし、西方の国を帰服させて与えるとの神託を受けた。
 天皇は神に反抗したため無くなり、大后と宿禰は軍勢を率いて新羅国(朝鮮)に渡ると、国王は畏まり、降伏した。大后は身籠っていたので、筑紫国に戻ると御子が生まれた。

 船で大和へ帰ろうとしたとき、皇位を狙っていた天皇の御子たちと戦い、これを討ち取った。その後御子は近江、若狭を回り、越に仮宮殿を建て住まった。
 その御子は即位して15代・応神天皇
(ほむだわけ)となって、軽島の明宮で天下を治めた。』

0011  写真は福岡の香椎宮(神社)の裏にある仲哀天皇の「訶志比(かしひ)宮」址で、「仲哀天皇大本営御舊蹟」の文字の入った碑がたっている。すぐそばに一時的に天皇が崩御されたとき棺を置いたとされる「香椎廟址」もある。下の写真は現在の香椎大社の本殿で「橿日造」(かしひつくり)と称される独特のものである。勿論あちこちに菊のご紋が入っている。

 この神功皇后の新羅征討は古事記には特に記載されているが、中身はいたって簡単に、朝鮮半島に着き、新羅王が降っている。具体性を欠き、抽象的な内容であることからも、これは歴史的事実を踏まえたものではないというのが通説である。

 応神天皇の誕生が何故九州なのか。それは、応神が九州の王であり、仲哀までの王統とは異なるという水野説が定説的である。尚、生まれた地域は宇美と言い、祭神が神功皇后の宇美神社があり、安産の神様として尊崇されている。
 尚応神天皇の御世は多くの渡来人が来日し、日本に技術革新をもたらした時代と言われる。八幡社の総本山宇佐八幡宮の際神であり八幡神は応神であるとされている。又、陵は大阪羽曳野市の恵我藻伏岡陵で、仁徳陵に次ぐ最大級の前方後円墳である。

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2009年4月20日 (月)

我家の牡丹

0221  昨日、我家の牡丹が咲いているのを見つけた。見つけたという言い方はおかしいが、この牡丹、もう15年以上前に買って来たもので、南側の庭には庭木があり、植える場所が無かった。そこでとりあえず東側の隣家との境の空き地に仮植えしたもの。だから庭に出ても、見る気が無ければ、見えない所なのだ。

 樹性はいいのか毎年大輪の花をつけるが、場所が日当たりが余り良くないせいか、いつも梅雨入り頃に咲く。だから、梅雨の雨に打たれて散ってしまう。
 それで今年はまだ早いので、特に気にかけて無かったが、昨日見たら、今年はもうこんなに大きな花をつけていた。例年より1ヶ月は早い。やはり、今年は夏が早いのかな。

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2009年4月18日 (土)

古事記を読む(19)

多遅摩毛理、倭建命の遠征
(垂仁天皇、景行天皇の御世)
《「古事記」あらすじ》
 『11代・垂仁天皇は皇后の兄沙本毘古王から命を狙われるが、后からこのことを聞く。后は兄と共に籠城するが、御子を産んでから討たれた。御子は言葉が不自由であったが、出雲大社に参拝して治る。
 天皇は多遅摩毛理を常世の国に遣わし、「ときじくのかくの木の実」を探させたが、その実が持ち帰られたときには天皇はすでに亡くなっていた。

22_002  12代・景行天皇の御子小碓命は猛々しく荒い性格で、兄の大碓命を厠で掴み殺し、袋に入れて投げ捨てた。これを恐れた天皇は西方の熊曾建討伐を命じ遠ざけた。小碓命は叔母の倭比売命より貰った衣装を身に着け、熊曾建兄弟を征伐した。これ以降、倭建命と称えられた。
 熊曾平定後、倭建命は大和への帰路、山の神、河の神、宍戸の神をすべて平定し、出雲国では出雲建を騙し討ちした。

 帰還した倭建命には東国遠征の勅命が出た。途中伊勢神宮に詣で、叔母の倭比売命の草薙の剣と守り袋を授かり、東国を目指しながら山河の荒ぶる神々や従わない者たちをことごとく平定した。途中相模国や走水海(三浦半島)などでは苦戦もしたが、蝦夷や足柄の神々も平定し、信濃国の神も説得し、尾張国に戻り美夜受比売と結婚した。この御子が仲哀天皇である。』

 図はヤマトタケルノミコトの東国平定行路である。
 垂仁天皇の条のタジマモリの話は戦前の小学唱歌にあったので、年配の方々はよくご存知の話だ。タジマモリは新羅の王子で日本に渡来したアマノヒボコの玄孫とされる。常世国は理想郷で、不老不死の世界だから求めた木の実(橘)もその効があると考えられた。道教の影響を受けた伝承であろうが、渡来人たちのヤマト政権への忠誠譚と見られる。

 ヤマトタケルは記紀以外の風土記などではヤマトタケルスメラミコトとして天皇扱いされているが、書紀の成立で天皇から除外されたようだ。
 景行天皇の条は略倭建命の記述で占められている。書紀と違い、古事記の倭建命は孤独で父に疎まれ、倭姫に常に助けられる。これは大国主神が八十神に殺されて後、美男に生まれ変わり、あちこちで神々の助けを得ながら国を平定する噺と似ており、大国主神の話の中に生きた人物を伝えているとも見られる。

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2009年4月16日 (木)

面白い! 信長三部作

0022  山本兼一という作家は知らなかった。が、「利休にたずねよ」が第140回直木賞を受賞した。途端に店頭に写真の「火天の城」が並んだ。これも直木賞候補となったが受賞せず、第11回松本清張賞受賞とあったので、早速買って読んでみた。

 読んでみるとこれが面白い。つい引続き「雷神の筒」、「白鷹伝」(デビュー作品)を一気に読んだ。三冊とも信長に仕えた人物が主人公なので、これを信長三部作と称している。

 何処が面白いかと言えば、
1.文章が簡潔で、テンポがよく、実に読みやすい。
2.物語の舞台は非常に詳しく調査研究された史実に沿って、時間をかけて練り上げられた構想によって出来上がった作品であろう事がよく解かる。
3.何れもテクノクラートというべき人達の飽くなき最高技術への挑戦。
などが読者を引きつけて飽きさせない。特に技術への挑戦と共に、信長という大きな壁を乗り越える執念などが面白い。

 読んだ順番に概説すると
「火天の城」:巨大な安土城建築を命じられ、無理難題を克服する番匠(大工)の棟梁岡部又右衛門の感動的な悪戦苦闘の物語。2004年出版。
「雷神の筒」:織田家の鉄砲頭であった橋本一巴が、鉄砲による新戦術で勝つことに執心しながら、信長に疎まれ、人を殺める事に苦悩する物語。2006年出版。
「白鷹伝」:浅井長政、信長、秀吉、家康と4代の武将に仕えた鷹匠小林家次が幻の「からくつわ」と言われる白鷹を育て、駆使する鷹狩りを描ききった作品。長編第一作である。2002年出版。

 歴史小説、時代小説ファンにはお勧めの作品。是非一読を。

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2009年4月14日 (火)

古事記を読む(18)

三輪山伝説と天下平定:崇神天皇
《「古事記」あらすじ》
0012  『10代・崇神天皇(御真木入日子印恵命)の御世、疫病が流行った。天皇は神に教えを乞い神床に臥していたところ、大物主神が現れ、意富多多泥古
(おおたたねこ)に私を祀らせば祟りは消え国は安らかになると託宣した。天皇はその者を河内で探し出し、大物主神を三輪山に祀らせた(写真大神神社)。併せて他の神々も祀り、疫病は止み、国家は安らかに治まった。

 尚、意富多多泥古は活玉依(いくたまより)毘売の4代の子孫であるが、この毘売のもとに美しい男子が通ってきて、妊娠したが素性がわからぬので、糸を裾に縫いつけその糸をたどってゆくと、男が三輪の神であり、毘売の子は神の子であることが判った。

 崇神天皇の御世、越国、東国十二道、丹波国に軍を派遣し、平定した。又、徴税(調)も始まり、政事も安らかとなり人民は富み栄えた。この御世を称え天皇を「所知初国之御真木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)」という』

Photo  崇神天皇が「ハツクニシラス」と称されたが、日本書紀では初代・神武天皇も同様に称されている。元々9代天皇までは架空のもので、実際は崇神天皇こそ初代天皇であろうとの見方は大方の歴史学者の一致するところだ。即ち東遷に主力が置かれた神武と、大和治世に重点が置かれた崇神天皇とは同一人物であるとの見方であり、神武は存在しなかったと見られる。

 崇神天皇は「ミマキイリヒコイエニエノミコト」と称されるところから、この天皇は任那から渡来して先住民を征服した君主だとする説がある。東遷して(渡来して)、四道を平らかにした(先住民を征服)こととも符合させる説である。

 この頃、出雲は大和の支配圏に入っていたかどうか不明であるが、日本書紀では出雲内に抗争があり、吉備の助けを借りて大和が出雲を征服したと読める。
 尚、古事記では越、東国、丹波に軍を派遣したとして3人の将軍が記載されているが、書紀では大彦命(北陸道)、武渟川別(東海)、吉備津彦(西道)、丹波道主命(丹波)の四道将軍が出ている。しかし、この将軍達の働きの記載は一切ないので、実際に国土平定に関わった将軍達がいたであろうが、四道将軍がいたかどうかは定かでないとされている。

 三輪山には、本来蛇体だとされる大物主命が祀られているが、写真の如く拝殿は存在するが、御神体は三輪山であるので、本殿が存在しない。又、妻のヤマトトトビモモソヒメは近くの箸墓古墳に葬られているとされていて、卑弥呼に比定されるが年代的に無理がある。尚地図は崇神王朝歴代天皇陵と宮址を示している。

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2009年4月13日 (月)

初夏の陽気に誘われて

 快晴で、真っ青な空に、強い日差し。最高気温26℃で、5月下旬の気温だったとか。陽気に誘われつい外出したくなり、久しく行ってない宮地嶽神社に行ってみた。

0031  この神社は息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后のこと)を主際神とし、勝村大神、勝頼大神の3柱が祭られている。商売の神様と言われ、正月の参拝者数は100万人を越えると言われている。
 創建は約1600年前といわれ、神功皇后が三韓征伐に出る前に、ここに滞在し、この宮地嶽の頂上に祭壇を設けて戦勝祈願をしたのが始まりとされ、現在の社はこの中腹にあり、全国宮地嶽神社の総本宮である。

 この神社の裏には奥の宮八社と言われる神社が祭られており、そのうち不動神社は横穴式古墳の石室の中に祀られていて、此処からの出土品は国宝に指定され宝物館に収蔵されている。(奥の宮八社:稲荷神社、濡髪大明神、万地蔵尊、淡島神社、薬師神社、七福神社、不動神社、三宝荒神の八社)

0171  境内は広く、菖蒲園や古民家を全国から集めた民家村自然公苑などがある。写真は高山から移設された合掌造り民家である。このほか、鉤屋造り、くど造り、二棟造り民家等がある。芝生の広場もあり、弁当を開いたり、ゲームをしている若人も多かった。

 ゆっくりながらそこそこ歩いて、帰宅してのビールが旨かった。

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2009年4月11日 (土)

古事記を読む

欠史八代
《「古事記」あらすじ》
 『神武天皇没後、御子の多芸志美美命が天皇の后を娶り、三人の異母弟を殺そうとしたが、末弟の神沼河耳命
(かむぬなかわみみのみこと)が征伐した。神沼河耳命は即位して第2代・綏靖(すいぜい)天皇となった。

 この御子が第3代・安寧天皇。以下第4代・懿徳(いとく)天皇。第5代・孝昭天皇。第6代・孝安天皇。第7代・孝霊天皇。第8代・孝元天皇。第9代・開化天皇が天下を治めた。』

 古事記には2代から9代天皇までは名前が羅列されているだけである。よってこれを欠史八代と称されている。

 戦後、独特の王朝史論を発表した水野祐博士によれば、三王朝交代説といわれる論により、天皇家は10代・崇神天皇から14代・仲哀天皇まで。その後の応神天皇から25代・武烈天皇まで。そして26代・継体天皇から現在までの3系統の王朝から成っている。
 そして、初代・神武天皇から9代・開化天皇までは、その崩年干支(崩御した年の干支)が記されていないが、崩御干支の記載の無い天皇は実在しなかった天皇であるという。

 10代以降に、9代までと同じ名前を持つ天皇もあり、9代までは実在しなかったと言うのが現状では一般論となっている。
 

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2009年4月 9日 (木)

夏近し

0052  今日は雲ひとつない快晴。最高気温23℃とかで5月中旬の気候だそうだ。一気に夏が来たと言うべきか。しかし桜も未だ満開状態なのもあるのに、ツツジは既に満開に近いのがある。勿論藤も咲いている。

 従来なら、1ヶ月に亘って順次咲く花が一気に咲いているのである。これはやはり異常気象と言うべきであろう。農作物にはどんな影響があるのだろうと心配である。

 写真は、そんな昼下がり、池の亀が甲羅干しをしているところ。実に気持ち良さそうだ。

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2009年4月 7日 (火)

古事記を読む(16)

神武東征
《「古事記」あらすじ》
00221_6   『高千穂宮の神倭伊波礼毘古命(神武天皇)は、政ごとを行う地を求め、五瀬命(神武の兄)と日向を発った。先ず、豊国の宇沙から筑紫の岡田宮に至り、一年。安芸国で七年。吉備の高島宮で八年過ごして、浪速の渡りを経て河内の白肩津に至った。
 そこで長髄彦の軍勢と戦い五瀬命は深手を負い、今後は背に太陽を受けて戦うべしとしたが、紀国の男之水門で絶命した。

 神武天皇が熊野から倭へ向かう途中、熊野で気を失ったが、高倉下から刀を貰い目覚めて荒ぶる神々を切り殺した。
 更に高倉下の夢に出た通り八咫烏(やたがらす)の後ろを進み、吉野川で迎えた神々と共に進むうち、兄宇迦斯の罠を弟が密告したので、道臣命らに征伐させた。

 更に進み土雲一族も征伐し、神武天皇は従わぬ者共を退け、畝傍の橿原宮で即位し初代神武天皇として、天下を統治した。又、大后に大物主神と人の娘との間に生まれた子を迎え、三柱の皇子をもうけた。』

 これより古事記は上巻を終え、中巻に入る。このくだりではどうしても邪馬台国東遷説(「邪馬台国を探そう」の項)と重なる。出発が日向から、先ず博多(奴国)に向かい瀬戸内を寄り道しながら河内にはいるというのは邪馬台国東遷説を説明しやすい。但し、紀州に入るまでの径路はかなり大雑把であるのは伝承を基にしているせいであろう。
 し
かし、それ以降の径路や出来事には詳しいのは、壬申jの乱(672年)の大海人皇子の行動が参照され、それに伝説、風土記などが結合され、一つの物語に集約した結果とも推定される。

 古事記における神武の役割は東征だけで、その後の統治に関する記事はない。又、神代の神から初めて人間の天皇への橋渡しの役であることなどから、実在の人物かどうかが疑われている。
 此処に出てくる土蜘蛛は天皇に逆らう先住民のこととするのが一般説で、各地風土記には多くの土蜘蛛が出てくる。土から穴居民を指すと言う説もある。

 

 

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2009年4月 6日 (月)

古事記を読む(15)

海幸彦、山幸彦と初代天皇登場
《「古事記」あらすじ》
 『邇邇芸
(ににぎ)命の子、火照(ほでり)命(海幸彦)は海で漁をなし、弟の火遠理(ほおり)命は山で狩りを行っていた。ある時火遠理命は兄の火照命に道具の交換を願って、釣りをした。しかし、釣果もなく、釣針を失った。火遠理命は代わりの針を返そうとしたが、兄は元の釣針を返すよう強く求めた。

 火遠理が悲しんでいると、塩椎神に「海の中の綿津見神の宮殿に行くよう」教えられ、そこで海の神の娘・豊玉毘売(とよたまびめ)命に出会い一日で契りを結び、三年間海の宮で過ごした。
 そして綿津見大神に助けられ釣針を鯛の口から取り戻し、地上界へ帰り、火照命を服従させた。

 豊玉毘売は火遠理の子を海辺の産屋で生んだが、そのとき豊玉毘売が鮫である事を見られ、子を残して、海の道を閉じて、海の世界へ帰った。
 その子が鵜葺草葺不合命
(うがやふきあえずのみこと)であり、豊玉毘売の妹、玉依毘売と契り、五瀬命、稲氷命、御毛沼命、若御毛沼命(又の名を神倭伊波礼毘古命=(初代)神武天皇の4柱の子を産む。』

 この海彦、山彦も馴染みのある話である。尚、この話は浦島太郎の話に通じるものだが、似た伝承は東南アジヤには多い。
 それより、このくだりは愈々天上界の神々から地上の天皇家への橋渡しとなる重要な部分なのである。

 即ち、邇邇芸命と木花佐久夜姫(山神の娘)との婚姻、山彦と海神、豊玉毘売の結婚が夫々天皇家による山支配、海支配の正統性を記しているわけである。即ち高天原に由来する一族による地上統治の正当性を支えるための物語であると言える。

 又火照命は隼人の祖といわれることから、天皇の祖火遠理命に服した事は、地方の隼人が天皇の中央政権の支配下に入ったことを示しており、神武東征により九州の隼人族が大和に上り、政権を打ち立てることのベースとなっている話なのである。

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2009年4月 5日 (日)

朧の季節到来

0051  花冷えの中での満開の桜も先日から散り始めた。気温も上り暖かく、明け方の寝心地がよく、朝寝を貪っている。
 今日の毎日俳壇の掲載選句に
 「覚めてより夢始まりぬ老いが冬」(伊藤文策)
がある。これを読んだとき、目覚めた床の中で、今後の楽しい夢を描いていることを詠ったものと思った。しかし、「評」には「夢と眠りの取りとめない境地」とあるので、やはり春曉の床の中の夢うつつ状況なのであろう。

0011  この季節、ひと際明るい陽射しとなり、暖かく、花々が咲き、若芽が吹いて、気分が何となく明るく希望に充ちてくるから、大好きである。
 だから、猛浩然の詩「春眠暁を覚えず、処処に啼鳥を聞く・・・・・」や歌のおぼろ月「菜の花畑に、入日うすれ・・・・」などがすぐ頭をよぎる。

 しかし、初夏の新緑の頃まで、日に日に変化する自然の移ろいも、これ又楽しい限りで、身も心も生き生きして来るこれからの季節が一年中で一番すきである。

(写真は近郊の蓮華畑と菜の花畑)

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2009年4月 4日 (土)

古事記を読む(14)

天孫降臨と木花之佐久夜毘売
《「古事記」あらすじ》
 『天忍穂耳命と高木神(高御産巣日神)の娘豊秋津師比売命との間に子が生まれたので、天照大御神はこの子邇邇芸命
(ににぎのみこと)に地上界統治を命じた。天照大御神は、供の神々をつけると共に、勾玉、鏡、草薙の剣を与えた。邇邇命は筑紫の日向の高千穂の峰に降り、そこに宮を営んだ。

 邇邇芸命は木花之佐久夜毘売に出合って、求婚した。毘売の父神(大山津見神)は姉の石長姫をも邇邇芸に捧げた。ところが、石長姫は醜かったので父神の元へ帰し、佐久夜毘売と結婚した。
 大山津見神は石長姫を選べば御子の命は永遠だが、佐久夜毘売を選べば花のように短い命となると予言した。だから今に至るまで、天皇の命は長久ではない。

 一夜の契りで木花之佐久夜毘売が産む子は私の子ではないと邇邇芸命から言われたが、毘売は生まれる子は天つ神の子であることを誓って、産むときに産屋を燃やした。そして生まれた子が火照(ほでり)命、火須勢理(ほすせり)命、火遠理(ほおり)命である。』

 このくだりでは、地上界に降りる神は高御産巣日の血筋を引くこと。又以降、他の神の血筋の組み込みをすべく、邇邇芸は山の神の娘と結婚し、その子は海神の娘と結婚。このように、地上界の地と水を組み込んだ天つ神の御子が次の代に至り、初代天皇になることを描いている。
 しかも、佐久夜毘売との婚姻によって生まれた天皇たちは、天つ神のような不死身でなくなったことを語っているのである。即ち神と、地上の寿命を持つ天皇と結びつけるためのくだりである。

 天孫降臨神話は、実は二つの話が統合されたものとする説がある。一つは邇邇芸命が五柱の神と同行したことや佐久夜毘売、別名阿多津毘売の阿多は隼人で、一族上げて熊本へ移住したこと。も一つはアマテラス族の長、思金神と妻豊受姫(ヤマトモモソヒメ=台与=卑弥呼の宗女)が日向にいたアマテラス族をつれ大和に移動したことを示すとする。この二つが統合されたのがこの天孫降臨だとする。

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2009年4月 3日 (金)

運転マナー

 最近、無理な追い越しや割り込みが少なくなり、又横断歩行者待ちなど安全運転や運転マナーがよくなったと思う。

 唯一つ不思議なのは、ウインカーの点灯が遅いのは何故か。
 可なりの人が右・左折のウインカーを点灯するのが遅い。交差点の直前で点灯させる。従って後続車は慌ててブレーキを踏む羽目になる。
 又同様に、十字路交差点で信号停車している場合も、信号が変わってから発車するとき初めて右・左折のウインカーを点灯させる。これも勿論後続車は迷惑である。中には全然ウインカーを灯けずに右・左折しまう人も多い。

 私どもが教習所で習ったのは、右・左折する場合はその30m手前地点からウンカーを点灯するように習った。それをやらなければ免許試験では減点されたので、しっかり守るように教えられたものだ。

 最近はどのような教え方をしているのか。前と同じなら、どうして早めにウインカーを点灯させないのか知りたいものである。独り言のボヤキである。

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2009年4月 2日 (木)

古事記を読む(13)

大国主神3(国譲り)
《「古事記」あらすじ》
 『大国主が治める葦原中国は繁栄した。これを高天原から目にした天照は、この国は我が子、天忍穂耳
(あめのおしほみみ)命が統治すべきだと地上界へ遣わした。だが下界が騒がしので、代わって天菩比(あめのほひ)神を、ついで天若日子(あめのわかひこ)を遣わしたが、大国主神に懐柔されてしまった。

 そこで、建御雷(たけみかづち)神を地上界に遣わしたところ、大国主の子、八重言代主神に任せると言い、言代(ことしろ)主神はこの国はお任せすると言って身を隠した。ところがもう1人の子、建御名方神は反対し、力比べを挑んだが敗れ、諏訪湖に逃げ去った(諏訪大社上社の祭神となっている)。
 この結果、大国主神は出雲の地に立派な宮殿を建てることを条件に地上界の国譲りに応じた。』

 この国譲りに似た神話は11世紀の西アジヤの「王の書」にも見える。この地上界平定のくだりは大和に勢力を広げつつあった九州から来た一族と、当時強大な勢力を誇った出雲族とが激しい闘争を繰り広げ、結果的に出雲族は敗れたが、鉄の生産とそれに拠る武器調達力を保持し、継承するための和解策であったろうと推定される。

0192  その証が平成12年に、旧本殿跡地中より発見された出雲大社の「心御柱」(左の写真、1本径1.3mの柱3本が束ねられ径3mの柱)が実証する。高さ48mあったと言われる壮大な大社殿の建物跡である。
 出雲神話は古事記の中では相当部分を占め、大和朝廷が出雲を重視し、大国主の霊に対する怖れと、その鎮撫に如何に心を砕いたかが解かる。但し、本殿の大国主神は西向きに鎮座し、南向きの拝殿からは正面に向かっては参拝できぬように祭祀されている。即ちこの社は大国主の霊を封じ込めるための社なのである。

 尚、鉄器生産とは別に、銅鐸、剣、鏡など祭祀に使われた大量の青銅器が、近年荒神谷遺跡から発掘され、古代から可なり開けた先進地域であったことが伺われる。

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